宋朝成立の歴史的背景

Zhu Quanzhong
朱全忠

唐末の755年における安史の乱や874年の黄巣の乱により唐王朝は中国全土を統治する能力を失い、907年に唐朝最後の皇帝哀帝(892年~908年)が朱全忠(852年~912年)に対して禅譲を行ったことにより唐は事実上滅亡する。朱全忠は自ら皇帝を称し後梁を打ち立てるも、各地の軍閥とも言える節度使がこれを認めなかったために中国大陸には各地で独自の政権が割拠する事態となっていた。これにより中原には5つの王朝が興亡し、中原周辺や中国南部では10の地方政権が乱立した五代十国とよばれる時代が約50年間続く。
五代最後の王朝後周に仕えた趙匡胤(927年~976年)は陳橋の変により周囲から推される形で後周最後の皇帝恭帝(953年~973年)より禅譲を受け、宋王朝を960年に建国する。これにより、唐王朝滅亡より約半世紀後に中国大陸に統一王朝が再び登場した。

Zhao Kuangyin
宋の初代皇帝・太祖こと趙匡胤

五代十国時代の混乱の反省から、宋王朝は太祖趙匡胤以来、各地の藩鎮を治める節度使の勢力を削ぐことを目的に文治主義をとり、このような武断政治を排除する政治システムは趙匡胤の弟であった趙匡義(939年~997年)こと第2代皇帝太宗の時代から本格的に整備された。これにより文官で構成された枢密院に軍政統括権を与え、一方で行政の場では貴族合議制を廃止して、科挙で選抜した官僚による官僚政治も整備していった。文治政治への転換により歴代の王朝に見られた権力の乱立は避けられ、皇帝に権力が一元化するという後世の王朝の政治制度にもつながる皇帝による専制政治へ切り替わっていった。しかし、徹底した官僚政治は多数の官僚を抱えていたことから国家財政の圧迫を招くことになり、また軍事力を削減していたために遼(契丹)・金(女真)・西夏(タングート)といった周辺の異民族の台頭を許すことになった。

実際に五代の時代に石敬瑭が建国した後晋は後唐に対して反乱を起こして出来上がった国家であったが、契丹人(キタイ人)に援軍要請した見返りとして燕京(現在の北京)を含む燕雲十六州を936年に割譲している。1004年には遼の聖宗(耶律文殊奴、972年~1031年)が20万におよぶ大軍を率いて南下する事態に陥り、結果的に国境線は現状を維持したまま毎年宋が遼に対して歳弊として一定の銀や絹布を納めるという盟約、「澶淵の盟」と呼ばれる和平協定を結んだ。また、12世紀より満州で活発化した女真族が打ち立てた金が遼および北宋を脅かすまでの勢力となったことで1127年には徽宗(1082年~1135年)および欽宗(1100年~1161年)の父子を拉致して上京会寧府(現在のハルピン市)に連行するという不測の事態が発生した(靖康の変)。西夏についても1038年李元昊(1003年~1048年)が建国するとしばしば宋の領土への侵攻を繰り返し、宋朝もこれへの対処に手を焼いたために1044年に慶暦の和約を結ぶに至った(1070年には西夏と遼の軍事衝突から西夏は遼および宋と対等な地位を獲るようになっている)。このような外交上の対周辺異民族政策での失策が結果的に後に南宋がモンゴルによって滅亡させられる遠因にもなった。

宋代の経済

Qingming shanghetu
清明上河図

趙匡胤は宋を建国すると、その国都を開封(現在の河南省開封市)に定める。開封の正式名称は東京開封府であり、また汴州にあったことから汴京とも呼ばれることもある。開封は春秋時代以来歴史ある都市であり、戦国時代には魏の首都大梁として大都市の機能を果たしていた。その後、漢代・三国時代を経て、隋の煬帝が建設した大運河(黄河と天津を結ぶ通済渠、長江と杭州を結ぶ永済渠、河北と浙江を結ぶ江南河で構成される京杭大運河)において要衝となり、長江下流のデルタ地帯すなわち江南で収穫された穀物の輸送に大きな役割を果たした。秦漢以来、中国歴代王朝は北方の異民族への防衛を意識した軍事的観点から咸陽・長安・洛陽といった地域に都を定めてきたが、軍事的意義よりも成熟しつつあった市場流通経済に着目して、後周の朱全忠は開封を国都に定めている。

Konan Naito
内藤湖南

日本の中国史家である内藤湖南(1866年~1934年)が提唱した「唐宋変革論」で挙げられているように、唐代および宋代は政治・経済・文化の担い手が貴族から庶民に移った大きな社会変革期であり、宋代は各種産業で大きな生産力向上が見られた。とりわけ、南朝以来発展していた江南における稲作は「蘇湖熟天下足(蘇湖熟せば天下足る)」や「蘇常熟天下足(蘇常熟れば天下足る)」といった当時の諺に代表されるように飛躍的な発展を遂げた。南宋(1127~1279年)の時期には首都が臨安(現在の浙江省杭州市)に移ったことや、ベトナムから日照りに強い占城米(チャンパ米)が伝播し、華南経済が急速に発展して江南での水田開発が進んだ結果、農地面積も4倍に増え、稲の品種改良・米作と麦作の二毛作・稲作の二期作といった農業技術の進歩に伴い、経済の発展も相まって宋代に世界で最初に中国の人口が1億人を突破するにまで至った。米や麦だけではなく、ゴマ・エゴマ・ナタネといった商品作物の栽培も盛んになっていった。

農業以外にも、漁業・鉱業といった産業が発展していっただけでなく、紡績業・窯業・製紙業などの手工業も盛んになっていった。木版印刷の技術が誕生したのもこの時代であり、出版に関する産業が生まれた。飲茶の習慣が誕生したのも宋代であり、周辺の遊牧民族に大きな需要があったことから宋朝はこれを専売制とし、莫大な利益を上げることで重要な経済基盤としていた。

唐の長安や洛陽では「坊」と呼ばれた壁で区切られた区画の中で指定された区域「市」で行われ、なおかつ同業者組合の「行」に属した上での日中の商業活動しか認められていなかったが、宋代を通じて都市部では同業者組合の支配力や影響力が衰えて市以外でも商業活動を行えるようになっただけでなく、夜市のような夜間の商業活動も認められていた。その結果、経済的に繫栄した都市部では人々が集まることで各種産業での需要が増加し、消費と物流が増大したことにより貨幣経済が大きく発達することとなった。このような産業と経済の発展は、これまで唐代までに見られていた自給自足の経済から商品経済・市場経済へのシフトであり、北宋の開封や南宋の臨安などが商業都市として成長していった。開封は人口が60~70万に上ったとされ、世界有数の大都市へと変貌していった。

9~13世紀の日本と中国大陸の交易の場であった日宋貿易は南宋滅亡までに平安時代と鎌倉時代を通じて行われており、朝廷で武士として太政大臣にまで上り詰めた平清盛(1118年~1181年)はこの貿易のために瀬戸内海の航路を整備し(広島県の厳島神社が現在とほぼ同規模に造営されたのも近辺を航行する宋からの貿易船への一種のデモンストレーションであったともされている)、これがのちの博多港や神戸港といった主要港湾の造成の契機となっただけではなく、禅文化などに代表される中国の文化・文物が日本に伝えられた重要な時期でもある。

宋代の文化

文学

宋代には文芸・芸術・哲学・科学技術といった各分野で目覚ましい発達・発展を遂げる。文芸においては、詩・詞(宋詞)・散文が盛んとなり、「唐宋八大家」として唐代の韓愈・柳宗元にならんで、欧陽脩(1007年~1072年)・蘇洵(1009年~1066年)・蘇軾(1036年~1101年)・蘇轍(1039年~1112年)・曾鞏(1019年~1083年)・王安石(1021年~1086年)の5人が宋代の秀でた文人として称される。

この5人以外にも北宋初期では楊億(974年~1020年)・銭惟演(977年~1034年)・劉筠(971年~1031年)・魏野(960年~1061年)・林逋(967年~1028年)・寇準(961年~1023年)、北宋中期には梅尭臣(1002年~1060年)・蘇舜欽(1008年~1048年)、北宋中後期黄庭堅では(1045年~1105年)・張耒(1054年~1114年)・晁補之(1053年~1110年)・秦観(1049年~1100年)、南宋初期では陳与義(1091年~1139年)・曾幾(1084年~1166年)・呂本中(1084年~1145年)、南宋中期では陸游(1125~1210年)・范成大(1126年~1193年)・楊万里(1127年~1206年)・徐照(?~1211年)・徐璣(1162年~1214年)・翁巻(1183年~1211年)・趙師秀 (1170年~1219年)、南宋後期で文天祥(1236年~1283年)といった優れた文人が排出されている。

宋代の中国語

宋代の中国語の種類

言語学者の呂淑湘(1904年~1998年)によると、宋代の口語=白話は開封および臨安を中心とした地域の口頭語を基礎としており、一般的に語録や平話といったものがこれに属するとされている。

唐代には中国語の白話文の基礎はおおむねできていたとされ、唐・五代・宋を通じて純粋に口頭語を基礎において書かれたものは少なくない。宋代以前に発生した変文・語録を含めて、詩・詞・曲などはすべて文言白話の混淆、文言を基礎としながらも白話に若干の傾斜を持たせているもの、あるいは生き生きとした表現を持たせるために会話文の中に部分的に白話の語彙・語法を導入手法が見られる。従来の伝統的な書面語という制約を受けている白話文に期待するのは難しく、かつ民衆が自由に話すことばがすべて漢字で表記しうるとは限らないために白話文を表記できる漢字が用意されている必要があった。文学作品を表記する以上は、社会のあらゆる分野・階級・階層の人々のことばを必要とし、語彙の幅は広くなり、語法の面でも文語の影響から簡単に逃れることはできない。その反面、口頭語ができるだけ忠実に反映されることが要求されており、口語と文語のふたつに挟まれて白話文成立には長い時間を要した。語録や宋代の小説を見るとこの過渡期における苦労をはっきりと確認することができ、文言の伝統と生き生きとした口語とをどの程度調和させて、音声によった場合でも聴覚で理解できる形式のものをどのように作り出そうとしたかその努力の痕跡を十分に窺い知れる。

印刷技術と出版文化の誕生

Gutenberg
グーテンベルグ

宋代には生産力の向上および経済の成長を背景として、羅針盤・火薬・印刷技術といった世界の三大発明と呼ばれる革新的な発明が誕生した。特に印刷技術に関しては、1455年にドイツのヨハネス・グーテンベルグ(1398年~1468年)による印刷技術の発明で出版された「グーテンベルグ聖書」と呼ばれる聖書よりも先んじて、北宋の政治家である沈括(1031年~1095年)の随筆集『夢渓筆談』によれば宋代の畢昇(972年~1051年)により慶暦年間(1041年~1048年)に膠泥活字を用いた活版印刷術が発明されたとされる(ただし、畢昇の発明した、砂とセメントを練り混ぜたモルタルに文字を刻んで招請した膠泥活字は活版印刷であったものの実用には至っていない)。

グーテンベルグの活版印刷によりそれまで一般民衆に手の届かなかった聖書が普及することによりマルティン・ルター(1483年~1546年)による宗教改革に大きく貢献したのと同様に、宋代に生まれた印刷技術は中国のみならず世界に革新をもたらした。グーテンベルグが開発したものがアルファベットを一文字ずつ活字を作ってそれを組んだものを枠に嵌めて印刷するという方法に対して、宋代に発明されたものは文字を彫った木版に墨を塗布して紙に転写する木版印刷(凸版印刷)である。

宋代の印刷は紙と墨の製造技術が進歩した他、木版に文字を彫る彫師や印刷を担当する摺師といった高い技術を持った専門職人の分業制によって支えられ、宋代の印刷物は「宋版」「宋本」「宋刊本」「宋槧本」と呼ばれている。誤字の少ない厳密な校正を経た文章は後の学術発展の基礎となり、なおかつ唐代の楷書を基準とした美しく端正な字体(いわゆる宋朝体)、精緻な技術で彫られた装飾性・実用性を持つ木版、版権の表記などは後世の書物の印刷の体裁を方向づけたとも言える。現存する宋版のほとんどが南宋時代の刊本であり、北宋のものは希少である。

宋版の内容は経書・史書・医書・詩文集等が多く、大蔵経も出版されることがあった。宋版は中央政府において国子監(首都の国立大学)で儒教経典を出版し、地方の官庁でも印刷物を発行した他、個人の学者や官吏も文集を出版していただけではなく、書店でも暦などの実用書・参考書・教科書の営利出版も盛んに行われていた。宋代に出版事業が盛んであったのは四川・浙江・福建であったとされる。宋代の出版事業は元々は中央政府主導の文教政策との深い関係性から発展していったが、次第に民間の出版業者急速に力をつけて、それが識字率向上に一定の影響力を及ぼすまでに至ったとされている。

その証拠に北宋末期の宣和 6年(1124年)の礼部(礼楽・祭祀・貢挙を司る役所)で省試と呼ばれた科挙の試験では、約15,000人の科挙の地方試験である郷試の及第者が開封に上京し、最終的に進士及第となったのは805 名であったとされる。約95%に相当する約14,000人が試験に合格できなかった狭き門であったことが分かる。受験志願者総数については記録が残っていないため詳細は分からないものの、ないが、郷試合格者の10倍程度と推定され、約10万人はいたであろうとされている。また、いわゆる士大夫の子弟ではなく、私塾に通っていた庶人もいたことから、科挙試験を受験するだけの学力の基礎となった印刷教材(この場合はいわゆる古典や儒教のテキスト)が宋代社会では比較的入手しやすかっただけではなく、中央政府で必須となる高度な文語の運用能力も備わっていったとされる。

蘇軾は自身の散文『李氏山房蔵書記』で以下のような記述を残している。

余猶及見老儒先生、自言其少時、欲求史記漢書而不可得、幸而得之、皆手自書、日夜誦讀、惟恐不及。近歲市人轉相摹刻、諸子百家之書、日傳萬紙、學者之於書、多且易致如此、其文詞學術、當倍蓰於昔人、而後生科舉之士、皆束書不觀、遊談無根、此又何也。
私が年配の先生から実際に聞いた話では、その方が若い頃に『史記』や『漢書』といった書籍を読もうと思っても手に入れることができなかった。幸いにして借りることができると、自分で全部書き写して昼も夜も朗読し、それでも書き写した文字が足りないことはないかと気にしていたそうだ。近年ではが出版を生業とする者が毎日のように諸子百家の本を続々と大量に印刷出版している。学生たちは本を簡単にたくさんそろえることができるようになった。学者にとって、今日では非常に多くの本があるだけでなく、簡単に入手できるので研究成果は先人の学よりも何倍も優れているはずである。しかし、今となっては科挙を受ける若い者は本を読まずじまいで終わってしまい、その言葉は空虚で根拠がないものとなっているが、これは一体なぜであろうか?

ここでは書籍の入手が数十年前は困難であったことを述べるとともに、蘇軾の時代になると印刷技術の発達・流通の整備により誰でも簡単に書籍を手に入れることができるようになったことを示している。また、このように出版産業が確立したことで、首都開封で話されていた中央の言葉が中国各地に伝播されていった契機になり、かつ文語体が依然主流であったものの口語体=白話による通俗文学として開封のような大都市の白話が全土で均一に普及していったきっかけともなっていった。

説話

市場経済が成熟したことにより商業が活発化し、宋代全体を通じて社会の経済基盤が安定するようになった。 中国の経済の安定化が庶民生活に余裕をもたらすようになったことで、開封などの都市部では娯楽のひとつとして「瓦」「瓦子」「瓦舎」「瓦肆」と呼ばれた盛り場の勾欄(芝居小屋)では、影戯(影絵芝居)や 陶真(琵琶などの楽器による伴奏で歌と台詞を繰り返して行う語り)や傀儡(あやつり人形による芝居)、そして「説話」と呼ばれる寄席・講談が流行するようになった。

説話とは文字通り「物語を語る」ことであり、唐代の変文の影響を受けつつ、語りや歌を取り入れるようになったものである。宋代の説話には「小説」(世間の様々なジャンルの物語であり「銀字児」とも呼ばれる。ジャンルとして、恋愛物の「煙粉」、裁判物の「公案」、軍記物の「鉄騎児」、怪談話的な「霊怪」、伝奇があった)・講史(歴史物語、「演史」とも。唐崩壊後の五代十国史「新編五代史平話」、徽宗の一代記「大宋宣和遺事」などあった)・ 説経(仏教説話、「談経」とも)・合生(即興芸)などがあり、これらを説話四家と呼んだ。ただし、説話にはこの他に「説諢話(滑稽話、「説参請」とも)」・「商謎(謎解き)」があり、これらを含めて説話四家の定義には様々な解釈がある。 説話を行う者を「説話人」、その台本や記録を「話本」と呼んだとされる。話本は説話人のメモであり口語体で書かれ、話本をもとに口語文の小説すなわち「白話小説」が作られるようになった。話本は下級文人の加筆を経て、読み物として庶民に広く受け入れられるようになった。孟元老(生没年不詳)の『東京夢華録』、呉自牧(生没年不詳)の『夢粱録』、著者不明の『西湖老人繁勝錄』、耐得翁(生没年不詳)の『都城紀勝』、周密(1232年~1298年)の『武林旧事』は往時の開封や臨安の都市の様子を描いたものであり、大衆娯楽として盛り場での説話が盛んであったことを伝えている。

説話の中でも後世の『三国志演義』の原型とも呼べる三国志を題材とした語り物が最も人気のあった題材の一つであり、「説三分」と呼ばれた。『東京夢華録』でも説三分専門の講談師として霍四究を上げており、明代に書かれた『水滸伝』でも宋よりも後代に創作されたフィクションでありながらも登場人物である李逵・燕青が開封に赴いた際に寄席でこの三国語りを聞く場面がある。蘇東坡が記した『東坡志林』では以下のような説三分についての描写がある

王彭嘗云、塗巷中小兒薄劣、其家所厭苦、輒與錢、令聚坐聽說古話。至說三國事、聞劉玄德敗、顰蹙有出涕者、聞曹操敗、即喜唱快。以是知君子小人之澤、百世不斬。
王彭はかつて言った。「巷の子供たちは軽薄であり、自分の家で子供を持て余すと、そのたび親は小遣いを与え、寄席に行かせて古い講談を座って聞くようにさせる。三国の講談の際には、劉備が敗れる場面では顔をしかめて涙を出す者もいる。一方で曹操が敗れる場面を聞くと、喜び喝采を唱える」と。

現在に伝わる『三国志演義』は宋代の三国志語り達が講談用の台本に加筆を繰り返し、元代に『三国志平話』(もしくは『平話三国志』)として成立したものが元末明初に至り羅貫中(生没年不詳)もしくは施耐庵(1296年?~1370年?)により成立したものと言われている。