先秦における中国の共通語

kong zi
孔子

儒家の始祖である孔子(紀元前552年?~479年)の言行を記した『論語』「述而篇第七」に以下のような一文がある。

子所雅言、詩書執禮、皆雅言也。
(子の雅言するところは、詩、書、執礼、皆雅言す。)
孔子は『詩経』を読む時も、『書経』を読む時も、儀式を執り行う時はいずれも「雅言」を用いた。

ここで述べられている「雅言」については様々な解釈があるが、「中華文明の発祥の地とされる黄河下流域を指す中原の正しい発音(この場合は孔子が理想とした周王朝の首都であった洛邑=洛陽の方言を基幹とした言語)」や「当時の何らかの共通語」を指すものされている。

歴史学者の岡田英弘氏によると漢字の原型らしきものが発生したのは華中の長江流域とされ、漢字を華北にもたらしたのは長江沿いに南方からさかのぼってきた夏人としている。殷の前王朝とされる夏は伝説上の王朝とされ、その王朝を立てた夏人は南方から水路づたいに都市文明をもたらしたとされる。ただし、注意しなければならない点として、夏王朝が存在したと比定される年代の遺跡として二里頭遺跡などがあるものの、文字の出土資料や夏王朝の実在を裏付ける考古学上の発掘がないのが現状であり、そのような事実に関わらず中国では民族的イデオロギーとして夏は実在したとする学術的見解が一般的である。

夏人と同じ系統とされる越人は現在の浙江省・福建省・広東省・広西チワン族自治区・ベトナムに広く分布しており、上海語・福建語・広東語の基層にあるのはタイ系の言語であったとしている。漢化される以前の華中・華南の言語はタイ語系とされ、それらの地域にルーツを持つ夏人のことばもタイ系であったと推測している。また、「雅」とは「夏」と同音であり、商人・商売を意味する「賈」、値段を意味する「価(價)」、ブローカーを意味する「牙」といった語も同じ音であることから、「雅言」とは夏人のことばであったのと同時に市場の言語であり、夏人は賈人すなわち商人も意味していたとしている。

Meng zi
孟子

孔子が生きた春秋戦国時代(紀元前770年~221年)は王位継承争いや権力者の政争で周王朝の権威が失墜した末、後に「戦国七雄(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓)」と称される諸侯の国が覇を競って中国各地に割拠することとなった。諸子百家と呼ばれた思想家たちが富国強兵を進める各地の王に対して政策提案や外交を目的として全国各地を遊説した時代でもある。

儒家の孔子は山東省南部にあった魯の出身、孟子(紀元前372年?~290年?)も山東省南部にあったとされる小国・鄒の出身、同じく儒家の荀子(紀元前298年?~238年?)は河北省南部の趙の出身、法家の韓非子(紀元前280年?~233年)は河北省北部・山東省南部・陝西省東部にあった韓の公子とされ、墨子(紀元前470年?~390年?)については魯・宋・楚など出身地に諸説があり、現在の中国における八大方言のように各地にはそれぞれの固有の地方語があったとされる。当時活躍した思想家たちの母語はそれぞれ異なっていたとされ、他の地方の人間との意思疎通のために何らかの共通語らしきものがあったのではないかと推定されている。春秋戦国時代の地域間の方言差を窺い知れるものとして以下のようなエピソードがある。

今也南蠻鴃舌之人、非先王之衜。」(『孟子』「滕文公章句上 」)
今や、南蛮鴃舌の人、先王の道を非とす。
今は、モズの鳴き声ような理解不能な言葉である楚語を話す者(楚人の許行)は先王の道は非として何かを説いている。

孟子謂戴不勝曰、子欲子之王之善與、我明吿子。有楚大夫於此、欲其子之齊語也、則使齊人傳諸、使楚人傳諸、曰、使齊人傳之。」(『孟子』「滕文公章句下」)
孟子、戴不勝に謂ひて曰く、子は子の王の善ならんことを欲するか。我明らかにし子に告げん。此に楚の大夫有りて、その子の斉語せんことを欲するや、則ち斉人をして諸に傳たらしめんか。楚人をして諸に傳たらしめんか。曰く、斉人をして諸に傳たらしめん。
孟子は戴不勝にこのように述べた。「あなたは王が善であることを望みますか? 私ははっきりとあなたに伝えましょう。もし、ここに楚の士大夫がいたとして、その子に斉語を話せるようになってもらいたいとするならば、斉人にその教師をさせますか? それとも楚人に教師をさせますか?」 孟子はこう答えた。「斉人に教師役をさせます」と。

hanfeizi
韓非子

孟子曰、否、此非君子之言。齊東野人之語也。」(『孟子』「萬章章句上」)
孟子曰く、否なり、これ君子の言にあらず。斉東の野人の語なり。
(孟子の弟子である咸丘蒙は「古代の帝王である舜が王位に就いた際に堯だけでなく実父の瞽瞍も臣下の礼をとって拝謁したので舜は恐れ謹んで落ち着かなかったと言い、孔子はこれを評して天下の人倫が乱れてしまいそうだと言ったそうですがそうなのでしょうか?」と問うと)孟子は答えた。「違う。それは君子の言葉ではない。それは斉の東に住んでいる野蛮人の方言だ」と。

工匠之子、莫不繼事、而都國之民安習其服。居楚而楚、居越而越、居夏而夏。」(『荀子』「儒效篇」)
(工匠の子、子を継がざること莫く、都国の民その服に安習す。楚に居たりて楚たり、越に居たりて越たり、夏に居たりて夏たり)
工匠の子は(その環境で生まれ育ったために家業を)継がずにはいられず、都市の住民は都市の服装を習慣として着ることを良しとする。楚の国に住めば楚人となり、越の国に住めば越人となる。中華に住めば、華人となるのである。

mozi
墨子

吳王夫差將伐齊。子胥曰、不可。夫齊之與吳也、習俗不同、言語不通、我得其地、不能處。得其民、不得使。」(『呂氏春秋』「貴直論」)
(呉王夫差将に斉を伐たんとす。子胥曰く、不可なり。夫れ斉の呉と、習俗同じくせず、言語通じず、我其の地を得て処する能わず。その民を得て、使うを得ず。)
呉王夫差は斉を攻めようとしていた。そこで臣下の伍子胥はこう言った。「そのようにすべきではないでしょう。斉と呉の習慣や風俗は異なるだけでなく、言葉も異なります。その地を獲得しても統治することはできないでしょう。そして、その民を得ても治めることはできないでしょう」

zhuangzi
荘子

鄭人謂玉未理者璞、周人謂鼠未臘者樸。周人懷璞過鄭賈曰、欲賣樸乎。鄭賈曰、欲之。出其樸、視之、乃鼠也。」(『戦国策』「秦策」)
(鄭人の玉の未だ理めざるを璞と謂ひ、周人の鼠の未だ臘ならざるを樸と謂ふ。周人璞を懐きて鄭賈を過ぎり、曰く、璞を買わんと欲するか。鄭賈曰く、これを欲す。その樸を出し、之を視るに、すなわち鼠なり。)
鄭人はまだ研磨されていない玉を「璞」と呼び、一方で周人は乾物になっていない鼠の肉を(同じ発音で)「樸」と呼ぶ。周人が「璞」を抱きかかえて、鄭から来ている商人を訪れて「璞を買おうとしているというのは本当か?」と聞くと、鄭の商人は「買いたいと思っている」と答えた。周人が「璞」を取り出して、鄭の商人がこれをよく見ると「樸」すなわち鼠の肉であった。

Laozi
老子

楚人謂乳穀、謂虎於菟、故命之曰鬥穀於菟。」(『春秋左氏伝』「宣公四年」)
楚人乳を穀と謂ひ、虎を於菟と謂ふ。故に之を命ずけて鬥穀於菟と曰ふ。
楚人は乳を「穀」と言い、虎を「於菟」と言う。それゆえに(虎の乳で育てられたので)鬥穀於菟と名付けられた。

これらの逸話からは中央の何らかの権威ある中央の言語すわなち共通語的なものがある一方で、地方語が中国各地に存在し、なおかつそれらはほぼ外国語同士のようなものであり、他地方のことばの理解には習得が必要ということが読み取れる。

Yang xiong
揚雄

春秋戦国時代の後代にあたる漢代に揚雄(紀元前53年~紀元18年)が記した『方言』(正式名称は『輶軒使者絶代語釈別国方言』)は当時の各地の方言を集めた方言字書であり、同じ中国大陸でも同書が編まれた漢代の時点ですでに地方によっては言葉が異なるだけではなく、使用する漢字すら異なっているという認識が持たれていることが確認できる。ただし、前漢当時は「方言」という名称はなく、「代語」「異国殊語」「殊語」「殊言」「異語」「異俗之語」といった語で方言や地方語といった概念を示していた。方言という語が生まれたのは後漢になってからであり、後漢の許慎によって記された『説文解字』の中で「方言」や「方語」といった語を使用しているのが確認できる。
春秋戦国時代末期から前漢ごろに編纂されたとされる『爾雅』も字義分類の字書であるが、『方言』同様に中国各地での方言単語も包括している(ただし、『方言』自体にはどの地方の方言かは明記されておらず、東晋の郭璞〔278年~324年〕が記した注釈に地方についての記述が見られる)
『詩経』は殷方言・周方言(洛邑方言)とされ、孔子の言行を記した『論語』は孔子の出身地である魯方言、秦漢の時代に至って秦(陝西省)と晋(山西省)の方言が通語すなわち標準語として定着し、「通語」と呼ばれて雅言に取って代わっていったとされる。

Xunzi
荀子

荀子の言行を記した『荀子』「正名篇第二十二」に
後王之成名、刑名従商、爵名従周、文名従礼、散名之加于万物者、即従諸夏之成俗曲期、遠方異俗之郷、即因之而為通
後王の成名は、刑名は商に從い、爵名は周に從い、文名は禮に從う。散名の万物に加わる者は、則ち諸夏の成俗に從い、遠方異俗の鄉にも曲期し、則ち之に因りて而て通ぜしむ。
とある。
刑法は殷(商)王朝のものを、官爵の体系は周王朝のものを、国家の儀礼は周王朝の礼制を、その他万物の名称については中華世界で慣習的に用いられている名称を基準として、中華と習俗を異にする遠方の地でも中華世界の習慣に則って適切な中華の名称を与えるべき、といった意味であり、荀子が生きた戦国時代末期には雅言は時代が変わっても文体が変わらない古典語として残っていたということになる。

これらの古典語は元々は春秋戦国時代の口語に基づいたものであったが、時代が経過するにつれて時代に実際の口語とは乖離が出てくるようになった。文言としての雅言は漢字で写定とされるとその文体は古典という形で固定され、時代が変化しても基本的に大きく変わることはなかった。これがいわゆる日本でも馴染みのある「漢文」であり、口語体とは異なる文体を持った「文言文」と現代中国語で呼ばれるものである。漢代になると古典語としての雅言は字体は変わっても、木簡・竹簡・布帛といった文字を記しにくい材料に漢字で記されていたことからより時制や助字の省略などでより簡略化されていった。かつ、一語増えれば原則として一文字増えることとなり、時代が経つにつれて文字数も増えてくる。結果的にそれら漢字を使いこなし、口語とはかけ離れた古典を理解できるのは士大夫層に限られることとなり、漢代から隋唐までの中古の共通語は古典的な文学語であり、具体的には上古の雅言を文字化した古典的文体をほとんどそのまま使いつつも人工的な技巧を加えたものであった。後に約300年間統一国家が不在であったた西晋以後の南北朝時代を終結させて隋を建国した楊堅(541年~604年)に関する記述として『隋書』「巻六十六列伝第三十一」に次のようなものがある。

朕雖不解書語、亦知卿此言不遜也。
朕書語を解せずといえども、また卿の此の言を知るは不遜なり。
私は「書語」は知らないと言っても、お主の発言が不遜なことぐらいは理解しているぞ。

ここで述べられている「書語」とは、文書に記された言葉=漢語の文語であり、文語と口語の分離が当時はっきりと意識されていたことが示すものと考えられている。

秦の始皇帝の文字統一事業

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始皇帝

紀元前221年に中国全土を平定して中国を統一した秦の始皇帝(紀元前259年~210年)は政治の中央集権化を進める中で郡県制を敷くとともに、各地でばらばらの基準で定められた度量衡・馬車の幅軸(車軌)・位取記数法を統一し、交通網や通貨の整備等を進めた。中でも文字統一が重要な事業の一つとされている。漢代の許慎が編纂した『説文解字』によれば、秦では八体と呼ばれる字体が8種類(大篆・小篆・刻符・虫書・摹印・署書・殳書・隷書)存在していたとされ、この内小篆を基準とした書体への統一化を宰相の李斯(?~紀元前208年)が秦国内で進め、後に皇帝が使用する文字を「篆書」とし、標準書体と定めた。これに対して臣下が用いる文字を隷書として秦が征服した地域でも公用文字として使用することを定め、各地での固有書体の使用を廃止している。戦国時代は漢字の使用場面や用途が拡大し、様々な事柄が文字に記録されていった。同時に漢字の地方化も進んでいき、地方ごとで独自の発展を遂げていった。結果として、漢字の字形が地方によって異なっていただけではなく、漢字の用字法もそれぞれで異なっていたことが近年の研究で明らかになっている。

秦に征服される以前の楚では楚文字(楚国文字)と呼ばれる独自に発達した文字を使用されていたとされ、秦の中国統一による文字統一政策で次第に使われなくなり消滅したものと推測されている。また、1950年以降に中国各地で五里牌竹簡(湖南省長沙市・長沙楚墓)・望山竹簡(湖北省江陵県・江陵望山楚墓)・信陽竹簡(中国河南省信陽市・河南信陽長台関楚墓)・馬王堆帛書(湖南省長沙市・馬王堆漢墓)といった竹簡・木簡・帛書と呼ばれる文字資料が発掘され、戦国期から秦に移る過程でも中国各地で独自の文字を使用していたことが窺い知れる。

後世に始皇帝の悪法として伝えられる焚書坑儒は専制政治のために行った思想統制であることは間違いないが、近年発掘された秦漢時代の墳墓から儒家関連の文章が大量の木簡・竹簡・帛書で発見されていることから焚書坑儒はそこまで徹底していたものでもなく、儒家による誇張も若干含んでいたのではと近年の研究では指摘されており、思想統制の一方で旧書体を廃止して篆書体への統一を図るという側面も持っていた。これが一般的に言われる始皇帝の「書同文」の政策であり、中国各地での行政文書処理の効率化や通信網整備に着目したという意味では文字に特化した政策ではあったものの、国家主導の言語政策としては中国史上初といえる。

晋代~五胡十六国時代の華北の情勢

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司馬炎(晋の武帝)

秦の後に中国を統一した漢(後漢)が220年に魏の文帝(曹丕、187年~226年)に禅譲する形で滅亡した後、三国時代を経て、280年に晋(西晋)により約100年ぶりに中国統一がなされた。魏に仕えていた司馬懿(179年~251年)とその子司馬昭(211年~265年)は次第に魏の朝廷の実権を握るようになり、司馬懿の孫である司馬炎(236年~290年)の代になるとついには魏の元帝(曹奐、246年~302年)より禅譲されて晋を建国する。司馬炎は晋の初代皇帝(武帝)に即位したものの、中国大陸の統一事業を完成させると急速に政治へ意欲を失ったことで政治が大いに乱れ、朝廷を支える人材も欠乏していった。司馬炎死後の290年になると晋王朝の王族同士による抗争が起き、八王の乱と呼ばれる内乱に発展し、隋の建国までの約300年間統一王朝不在の動乱の時代となった。晋は311年に永嘉の乱により事実上滅亡することになる。

中国の北方では紀元前3世紀~紀元前1世紀には遊牧民族の部族連合体である匈奴の勢力が拡大しつつあり、時として秦や漢を脅かす存在になっていた。漢王朝の対外政策として、匈奴・氐・羌といった周辺民族を征服すると、被征服諸民族を生み出し、彼らを次々と関中や山西西部に移住させることによって胡漢雑居の状態を漢帝国内に作り出していくという矛盾を生み出していった。

また、漢帝国の領外では、前漢の宣帝(紀元前91年~48年)の治世(紀元前60年頃)になると匈奴が東西に分裂し、さらに後漢の光武帝(劉秀、紀元前5年~紀元57年)の時代になると紀元48年には東匈奴が南北に分裂、その一部が漢に入朝したのを機に中国近縁の地に定住することとなった。北匈奴は2世紀頃に現在の中国・カザフスタン・キルギスタンに跨る天山山脈北方にいたという記事が『後漢書』にあるのを最後に中国史から姿を消し、後にゴート族やゲルマン民族などのヨーロッパへの民族移動を促したフン族と何らかの繋がりがあるのではないかともされている。両者の関係性を裏付けることのできる証拠が現段階では見つかっていないが、否定もしきれないのも事実である。

後漢や三国時代の魏では匈奴や鮮卑(春秋戦国時代から秦代にかけて内モンゴル東部から満州西部にいた遊牧民族である東胡の末裔とされる部族)を傭兵として雇い入れるようになり、後に前趙を建国することになる劉淵(251年?~310年)は南匈奴の単于=部族長の子孫とされ、劉淵自身も当初は将軍として晋に仕えていた。

八王の乱に乗じ、華北ではこれを機と見て北方の遊牧民族の動きが活発となり、晋を滅ぼした前趙をはじめとして、四川の成漢や甘粛の前涼といった匈奴・鮮卑・羯・氐・羌による異民族王朝の興亡が繰り返す五胡十六国時代(304~439年)に突入することとなった。前趙滅亡後は、甘粛省や陝西省に存在した氐族出身の苻堅(338年~385年)が建国した前秦(351年~394年)や、鮮卑族の拓跋部の拓跋珪(371~409年)により創建された北魏(386~535年)など、文字通り非漢民族の様々な異民族王朝が勃興した。北魏は439年に華北を統一したことにより、五胡十六国時代は終焉を迎える。

後漢以降の度重なる戦乱と飢餓により約5,600万人いたとされる中国の人口は三国時代には約760万人まで激減したと推定され、またこの時期に華北では人口激減による空白地の発生や度重なる民族大移動は異民族の言語の流入を招き、洛陽を中心とした中原において中国語に大きな変化をもたらした。流入してきた異民族の言語の影響で、周代~漢代の中国語の発音(上古音)に見られたkl(klam:監)、pl(plum:風)、sl(slum:史)のような複雑な重子音が消滅し、単純化していったとされる。

xiaowendi
北魏の孝文帝

鮮卑王朝である北魏は華北統一後、従来の部族制を解体して中国王朝風に貴族制に基づく政治を行っていった。政権樹立当初は少なくとも軍事においては鮮卑語で行われ、鮮卑語を理解する漢人士族が存在していたようであり漢人の北魏の政権への参画があったとされ、樹立当初の北魏では二重言語使用の社会であったと推定される。
しかし、第三代皇帝の太武帝(拓跋燾、408年~452年)の治世となると、北魏の華北支配に伴い北方異民族の移民は440年代には減少するようになり、450年代ともなるとほぼほぼ移民はなくなって華北社会は安定しつつあった。こういった事情もあり、道士の寇謙之(365年~448年)が漢人官僚の崔浩(381年?~450年?)とともに行った進言により当時華南に存在していた南朝を参考にして貴族社会を性急に進めようとしただけでなく、鮮卑と漢族の融合を図るべく漢化政策を行った(同時に寇謙之の画策により太武帝が道教の保護を目的として仏教弾圧政策も行った)。崔浩が漢化政策を行った理由として、鮮卑族が元々文字を持たない民族であり、上意伝達が口頭で行われることが多々あり、その大部分に鮮卑語が介在していたからとの指摘もある。

longmen shiqu
門石窟

また、続く第六代皇帝の孝文帝(拓跋宏または元宏、467年~499年)の時代には親政によって洛陽への遷都を皮切りに漢化政策がより鮮明になる。鮮卑姓から漢風の姓に改めるよう推し進め(国姓=帝室の姓も「拓跋」から「元」にした)、鮮卑の習俗の禁止や鮮卑的な官名の排除を行っただけでなく、加えて部分的に九品官人法を導入することで南朝を模した貴族制社会を構築するといった政策も行う。
積極的な漢語(洛陽方言)の使用を推し進めるためにも、鮮卑語についても部分的な使用を禁止した。鮮卑語は全面的な使用禁止であったと思われがちであるが、実際には宮廷での使用を禁止したものであり(当時30歳以上の者は免除されるという例外もあった)、かつ拓跋部の人々が華北の生活に慣れるにつれて胡語を忘れてしまうことを懸念して鮮卑貴族の子弟にたいして胡語を教育していったとされる。加えて、孝文帝は臣下に命じて経書のひとつである『孝経』を胡語に翻訳させて『国語孝経』を作らせ、儒教における孝の精神を鮮卑貴族に理解させようと試みている。
孝文帝が漢化を強く推し進めたのは中華文明に対する憧憬があったからとされているが、必ずしもそうではなく北魏にとって行政上漢化したシステムが必要であったとの解釈も近年発表されている。また、このような漢化政策が後の隋や唐による中国再統一の基礎になったとの指摘もある。しかし、この漢化政策が鮮卑族の反感を招く結果となり、523年には六鎮の乱が起こる。

sima jinlong
北魏皇室と姻戚関係にあった司馬金龍の墳墓から出土した漆画屏風

北魏に続く、北斉(550年~577年)も鮮卑化した高歓(496年~547年)が六鎮の乱を機に北魏の実権を握り、孝文帝の曽孫にあたる孝静帝(元善見、524年~552年)を擁立して東魏を打ち立てたことに由来する。結果的に高歓の子である高洋(526年~559年)が孝静帝より禅譲を受けて北斉を建国する。創業者の高歓が鮮卑化した漢人であったこともあり、再び鮮卑主義を尊ぶ風潮が生まれ、政治・軍事の場で用いられただけではなく、漢人官僚が子弟に積極的に習わせようとするなど、北魏初期同様に鮮卑語を共通言語として用いられていたという。

北魏の継承国家である西魏(535年~556年)は宇文泰(505年~556年)に擁立された北魏の皇族による国家であったが、最終的に宇文泰の子・宇文覚(542年~557年)が北魏の恭帝から禅譲を受けて北周(556年~581年)を建国する。
北周は儒教の経典のひとつである『周礼』に基づいた官制があるなど北魏同様に漢風の行政システムを取る一方で、鮮卑復古主義を掲げていたことから公用語を鮮卑語としただけでなく、鮮卑風に国家の儀礼を改めたり、領土内の漢人の姓を鮮卑風の姓にするなど政策を行っていた。

また、文芸・芸術などの分野で先進的であった南朝では数々の貴重な典籍が蔵書保管されており比較的入手しやすいものの、一方の北朝ではそれが手に入りづらいということが多々あった。北魏の歴史家であり官僚であった崔鴻(478年~525年)は五胡十六国時代の歴史を記した『十六国春秋』を編纂するにあたって史料収集を行っていたが、一部の資料が南朝にしかないためになかなか入手できなかったという逸話が北魏の正史である『魏書』に見られる。この他、北朝と南朝は常に対立・緊張状態にあったと思われがちであるが、時として華北の王朝と華南の王朝が互いに使者を派遣していたこともあり(ただし、対等な関係で相互遣使していたわけではない)、北斉では蔵書家と知られる人物が南朝に派遣された際には大量の典籍を華南の地で入手していたとされ、これも北朝では南朝の漢語すなわち正統とされた中原の言葉で書かれた漢籍に触れる機会があまりなかったものと推測される。

加えて、仏教が紀元1世紀にインドから伝来したとされ、それが社会全般に広がった4世紀後半から始まった。とりわけ、五胡十六国時代には従来の伝統的な儒教思想に縛られることもなく、自由な哲学思想が発達しやすい土壌で仏教が発達した。朝廷の保護を受けていった中で、現在の新疆ウィグル自治区のクチャ市にあった亀茲国出身の仏図澄(ブッタチンガ、232年~349年)が中国に来訪し洛陽で布教を行い、同じくの亀茲国から鳩摩羅什(クマラジーヴァ、344年~413年)も訪れて布教や仏典漢訳を行った。また、東晋の僧法顕(337年~422年)はグプタ朝のインドに渡り、仏典を中国に持ち帰った。法顕の旅行記は『仏国記』として著された他、のちに法顕が翻訳した『大般涅槃経』を元に中国では涅槃宗設立の礎となった。

華南における南朝の情勢

Liuyu
宋の初代皇帝劉裕

劉淵により晋が滅ぼされると、晋の皇族のひとりであった司馬睿(276年~323年)は317年に三国時代の呉の故地である建康(建業=現在の南京市)に遷都し、周囲に擁立されて東晋を建国する。晋に滅ぼされた後の建康は、華北で八王の乱や永嘉の乱といった戦禍に巻き込まれているのとは対照的に地元豪族の連帯により比較的平穏であった。このことから戦乱を逃れて華南に避難する難民を受入地の役割を建康を含めた長江下流域、いわゆる江南の地は果たしていた。このような大規模な民族移動は後に「衣冠南渡、八姓入閩」と形容され(このフレーズは文字通り、閩=福建やさらにその南の粵=広東にまで避難民が移動したという意味である)、「衣冠」とあるように晋の貴族や官僚も難を逃れて江南に移り住んだため、宮廷での公用語すなわち洛陽方言(中原雅音)がもたらされ、それがそのまま建康の貴族や官僚などの上級社会の言語となりつつ、秦漢以来独自に発展を遂げた現地語の呉語と融合しながら正統な中原の言葉の系統を保つ権威ある言語=南方標準語として形成されていった。これを金陵雅音と呼ぶ(士音とも呼ばれる)。

南朝の貴族社会は、支配者階層として士人と一般民衆である庶人とで大きく分かれ、さらに士人は中原から逃れてきた河北の世族(僑人)と在地の有力豪族である南士(呉人)に区別される。このうち士人層に権威ある語として話されていたのは僑人の言語である中原雅音であった。とはいえ、南朝宋の劉義慶(403年~444年)が記した『世説新語』で「方作洛生詠(洛陽の儒生が読誦するような発音)」と表現されるように旧都の声とでも呼ぶべき文化的素養を南士が有することもあり、それによって栄達した者も少なくはない。例外的に、庶人の間では例えば南朝斉に仕えた王敬則(435年~498年)が寒門出身であることから相手の身分に関わらず常に「呉語」を使っており、中原雅言を使いこなせないが故に詩作をすることはなかったと言われている。ここで言う南朝貴族社会の言語とは洛陽方言の口語であるとともに、読書音の体系でもあったと考えて差し支えない。その一方で、南士たちは庶人との会話や家庭内での会話は呉語であったとしても、南朝の官界においては北方の言語を用いるか、用いるように努力したことが『世説新語』といった当時の資料は示している。

北斉の顔之推(531年~590年?)によって記された『顔氏家訓』「音辞編」に以下のような一文がある。

南方水土和柔、其音清舉而切詣、失在浮淺、其辭多鄙俗。北方山川深厚、其音沈濁而鈋鈍。得其質直、其辭多古語。然冠冕君子、南方為優、閭里小人,北方為愈。易服而與之談、南方士庶、數言可辯。隔垣而聽其語、北方朝野、終日難分。而南染吳越、北雜夷虜。皆有深弊、不可具論。
南方は水土和柔にして、其の音清挙にして切詣なり。失は浮浅にあり、其の辞は鄙俗を多くす。北方は山川深厚にして、其の音沈濁にして鈋鈍なり。その質直たるを得て、其の辞は古語を多くす。然れども、冠冕の君子は南方を優と為し、閭里の小人は北方を愈と為す。服を易えて之を談ずるに、南方の士庶は数言にて弁ずるべし。垣を経てその語を聞くに、北方の朝野は終日分け難し。而れども南染呉越にして、北雑夷虜なり。皆深弊有りて、具に論ずるべからず。
南方は風土が穏やかで、その発音は澄んで伸び伸びと軽やかであるが、残念ながら軽佻浮薄のきらいがあり、卑俗な言葉が多く混じっている。北方は自然が雄大で、その発音は重く濁り鈍ってはいるが、飾り気がないところが良く、古い言葉を残している。とはいえ、高位高官の人物の言葉は南方が優れているが、一方の庶民の言葉は北方が勝っている。衣服を取り替えて話をしても、南方の高貴な者と卑賎な者とでは、少し言葉を交わせばすぐに見分けがつく。一方、垣根越しに話をするのであれば、北方の高貴な者と卑賎な者は一日中話をしても区別がつかない。けれども、南方は呉越の風に染まり、北方は異民族の影響を受けている。どちらも悪習が染み込んでしまっており、今ではこれを論ずることはできない。

これは南北朝時代の南北それぞれの言語を欠点を叙述している。北方の異民族が中華の地に侵入して以来、中原の貴族の多くは長江下流域に移り住むようになった。南朝の高貴な士大夫の言葉は依然として「北音」が正統としており、かたや民衆の言葉は多くが呉語であった。これに対し、北方の中原地方では身分が異なっても、言葉に差異はない。しかし、北方の言葉は異民族の発音が混じり、言葉がしばしば正しくないので、かえって南方の高貴な士大夫の発音が上品で教養があるのに及ばないということを伝え、かつ一般の民衆はというと南方人の発音は卑俗であって、北方人の発音が適切なのには及ぶことがないことを示唆している。そして、社会的階層に応じて大きく異なる言語を使用しているのが南方の社会であるのに対して、北方ではその差は顕在化しておらず、南方士大夫の言語>北方人の言語>南方の庶族・民衆の言語というような図式で優劣を論じている。

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梁の武帝

東晋以後、華南には宋(420年~479年)、斉(479年~502年)、梁(502年~557年)、陳(557年~589年)といった王朝が短命ながらも興こり、それらの時代は呉・東晋を含めて六朝時代と呼ばれる。長江下流域の江南をはじめたとした華南では正統王朝が都をおき、なおかつ大量の移民が流入したことにより水田造成やそのための水路・溜池の灌漑施設の整備といった土地開発が一気に加速した。また、貨幣経済が大きく発達し、貨幣の流通により様々な職種の人々が提供する役務に対する報酬もしくは官吏への俸禄として貨幣(銅銭)が支払われ、かつ商品や役務の消費地にてその代価として貨幣が用いられるようになり、結果的に建康を中心とした都市部での物資流通も活性化したことで商品流通の世界が構築されていった。ただし、梁以前から問題となっていた銅不足が問題視されており、梁の武帝(蕭衍、464年~549年)は良質な貨幣発行の安定化に努めていたが、523年には突如銅銭を廃止して鋳造しやすい鉄銭を採用したことによって私鋳も行われるようになったことから貨幣価値が下がる事態に陥ってしまい、インフレにより経済が混乱していった。これにより、窮乏した農民が増加して都市部に流入し、深刻な社会不安をもたらしている。

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梁職貢図

また、当時の国際情勢について特筆すべき点としては、三国時代には呉の首都であるものの一地方都市に過ぎなかった建業は、梁の武帝の時代になると世界を代表する一大都市へと変貌した。それを物語る資料として「梁職貢図」(蕭繹職貢図)があり、これは武帝の第七子蕭繹(後の第四代皇帝である元帝、508年~555年)が梁に朝貢する外国使節を刺史として赴任していた荊州や首都建康で調査して描いたものとされる。タクラマカン砂漠のホータン国、新疆ウイグル自治区トルファン市に存在した高昌国、アフガニスタン東部にあったエフタル、ササーン朝ペルシア、新疆ウィグル自治区にあったクチャ国、朝鮮半島の百済と高句麗、倭(日本)といった周辺国や周辺少数民族が来貢していることが確認できる。また、梁より2代さかのぼった宋の時期には日本からいわゆる「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」が5世紀に数度遣使入貢したとされる。

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王羲之「蘭亭序」

そして、華南の地で秦漢以来の中原文化を一貫して貴族が継承しており、貴族中心に六朝時代に花開いた文化を六朝文化と呼ぶ。文学(詩)では東晋末~宋の陶淵明(365年~427年)、同じく東晋末~宋の謝霊運(385年~433年)、『文選』を記した梁の武帝の皇太子である昭明太子(蕭統、501年~531年)、梁末斉初に文学理論書『文心雕龍』を編纂した劉勰(生没年不詳)、同じく文学評論書である『詩品』を記した鍾嶸(469年?~518年?)、美術(絵画)では東晋の顧愷之(344年?~405年?)、書道では東晋の王羲之(303年~361年)・王献之(344年~386年)親子といった文人や芸術家を数多く輩出している。詩や散文における文体の一つとして四六駢儷体が魏・晋の頃に生まれ、六朝や唐にかけて隆盛した。

また、六朝文化は宗教を基層に誕生した経緯もあり、老荘思想・仏教・道教が後漢末から魏晋南北朝にかけての動乱期に従来の中華における精神的根幹であった儒家思想を超越した新たな精神文化の原動力として大いに支持された。
梁の武帝は自ら「三宝の奴(仏教に帰依して仏・法・僧に従順な信徒)」と称し、「菩薩戒弟子皇帝」と呼ばれるほど熱心な仏教徒であり、後に唐代の詩人杜牧によって詠まれた「江南春」で「南朝四百八十寺」という一句に形容されるようにおびただしい数の仏教寺院が建立された。崇仏の姿勢は個人的な信仰・嗜好のみならず、国制・政体にも大きく関係しており、当時東アジア世界で仏教が急速に伝播していったこともあり、儒教思想に基づいた冊封体制と合わせて、各国との外交に大きな影響を与えていた。

しかし、東魏の権臣高歓の有力な武将であった侯景が高歓の死後に東魏から出奔すると、梁に降った。ほどなくして、それまで対立関係にあった東魏と梁が講和することになり、これに危機感を覚えた侯景(503年~552年)が548年に梁に対して反乱を起こした(侯景の乱)。翌549年には侯景は建康は陥落し、武帝を横死させた。乱は侯景が部下に殺害されたことにより552年に終結したが、結果江南社会を大きく混乱させただけではなく、建康を荒廃させたことで後の南朝の衰退を導くこととなった。

魏晋南北朝時代は儒教の経典とされる四書(『論語』『大学』『中庸』『孟子』)、五経(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)を研究・解釈する学問である経学も数多くの学派に分裂し、学説も多く生まれていた。北朝では 鄭玄(127年~200年)の学派が主流である一方で、南朝では 三国魏の王粛(195年~256年)の学派が主流であったが、結果的に唐代に至ると太宗(李世民、598年~649年)は孔穎達(574年~648年)・顔師古(581年~645年)らに命じて『五経正義』を編纂させ、四書五経の官選注釈書となった。最終的には653年の高宗(李治、628年~683年)の時代に完成し、毎年の科挙の経書に関する試験における国定教科書的な位置づけとなった。

後漢以降、文語と口語の乖離がいよいよ著しくなり、かつ音韻学の発達が進んだ。特に後者はインド音韻学の影響が大きいとされる。漢代には儒教の経典に見られる難解な語の意味を解釈する学問である訓詁学と漢字の意味を研究する文字学が誕生した。魏では李登(生没年不詳)が『声類』を記し、晋では呂静(生没年不詳)が『韻集』を記したとされ、それらは現在は散逸しているものの漢字を韻ごとに分類した字書であったとされている。魏の時代になるとインドより仏教が伝来し、それとともにインドの音韻学(悉曇学)がもたらされて中国での自言語に対する音韻的自覚が高まっていった。そのような中で漢字という特性上それまで表音方式を持たなかった漢字に対して反切という方法が考案される。漢字2語を用いて、読み方の分からない漢字の発音を表示する方法である。正確な起源は不明であるが、三国呉の孫炎(生没年不詳)による『爾雅音義』が最初であるとされ、ほぼ同時期の服虔(生没年不詳)または応劭(?~204年)による『漢書』の注釈でも半切は用いていると言われている。また、六朝の時代に至ると、梁の沈約により中国の言語に声調があることを気づいて各音を平声・上声・去声・入声と分類し、『四声譜』を記したとされている。