共通語および中央の言語としての「雅言」

kong zi
孔子

春秋戦国時代を生きた儒家の始祖である孔子(紀元前552年?~479年)の言行を記した『論語』「述而篇第七」には以下のような一文がある。

子所雅言、詩書執禮、皆雅言也。
子の雅言するところは、詩、書、執礼、皆雅言す
孔子は『詩経』を読む時も、『書経』を読む時も、儀式を執り行う時はいずれも「雅言」を用いた。

ここで述べられている「雅言」については様々な解釈があるが、「中華文明の発祥の地とされる黄河下流域を指す中原の正しい発音(周王朝の首都であった洛邑=洛陽の方言を基幹とした言語)」や「当時の何らかの共通語」を指すものされている。

殷の領土

史実として中国最古の王朝とされている殷は紀元前1700年頃から10の氏族からなる部族連合の形で華北の黄河デルタ地帯を中心に統治していたが、紀元前1046年頃に紂王の治世に連合体の一構成部族であった周の武王が諸部族を糾合したことによって滅ぼされる。

低地に住んでいた殷人に対して、今日の山西省台地で羊の放牧を行っていた羌族は現在のチベット族の先祖とされている。民族名としては「羌(k’iang)」であり、これに由来する氏族の名字が「姜(kiang)」と書くが、これらは同系語である。そして、羊の上古漢語の発音は元々は「ġiang」であり、これが「yiang」に転化した。羌族はヒツジをトーテムすなわち信仰の対象とも見なしていたと思われ、祭礼の際にはヒツジを犠牲として神前に捧げ、ここから「祥(めでたい)」という字は「示(祭壇)+羊」から成り立っている。同じく「美」は神への捧げるヒツジは大きいものが良いという意味であり、「幸」はその変形、「義」はヒツジを自分の所有物にしてしまうこと、「善」はヒツジの鳴き声のように穏やかな口調で喋るという意味である。

ヒツジは羌族にとって食用にできるほか、乳も得られ、羊毛を生み出すことのできる家畜(家畜は中国語で「牲口」とも呼ばれる)であり、牛馬同様に貴重な財産でもあった。また、周初に諸王に嫁いだ羌嫄・太羌・成羌といった羌族出身の女性の名前が『詩経』には見られ、この他に周の文王と武王に仕えた太公望として知られる呂尚(姓は姜、氏は呂、字は牙もしくは子牙)も出身は呂(河南省南陽市)だったが出自自体は古代の帝王舜により呂に封じられた羌族がだったとされ、羌族と周の強い関係性が窺い知れる。

この羌族と婚姻関係を結んでいた陝西高原盆地の周は西方から小麦といった穀物を入手して栽培を開始し、家畜をして豚を飼育することで急速に農耕民として成長していったものとされる。「商」とは明るい高台に居を構えるという意味であり、それに代わることになった周によって「殷」と呼ばれるようになり、「殷」とは元々は特定の地名を指す言葉であった。対する「周」とは稠密の稠(畑の隅々まで禾=作物をびっしり植えたという意味)で、すなわち豊穣な農耕地を示している。紀元前256年に秦により滅ぼされるまで周は黄河中下流域の中華文明の発祥地と位置付けられた、いわゆる中原を中心に周辺地域を統治していくことになる。殷周革命と呼ばれる殷から周への変革は部族連合社会から貴族社会への転換点であり、中原は後に中国社会で権力の中心の象徴と見做されるようになった。そして、中原を中心に殷と周の合体により、華北と華中は統合され、「中夏の民」すなわち漢民族の文化圏が誕生した。

Zhou map
周の領土

西北諸部族と連合して牧野の戦いにて殷を滅ぼした周は建築・製陶・鋳銅・兵器製造・織物などの各部門にわたる殷の職業士族を吸収し、周の仲間一党に分け与え、封建分割支配を始める。かつ、『書経』「洛誥」に

孺子来相宅、其大惇典殷獻献民
孺子来たりて宅を相(み)る、其れ大いに惇(あつ)く殷の献民を典とせよ

とあり、殷から来た賢い遺民を登用するように述べている一文が見られる。文字や旧来の伝承故事については殷の遺民の知恵がそのまま周代に継承された。殷はこのようにして一部では周に重用されながらも、他の亡民は土地職業を奪われたことで各地を巡って物を売ることに唯一の生業とせざるを得ず、これが「商人」「商業」の語源となった。晋(山西省)・魯(山東省西部)・衛(河南省西部)・鄭(河南省西部)・燕(河北省北部)といった国は周の同族に分け与えられ、斉(山東省東部)・陳(河南省中部)は友好部族へ支配を委任する形となった。また、殷の遺民の懐柔政策として殷の微子啓が宋(河南省中部)に封じられた。当初、陝西省の鎬京(現在の西安市)を中心に周王朝は政治を行っていたが、新たに洛邑(洛陽)に都を構えて華北と華中を制圧していった。周が結果的に殷の文化・技術・政治システムなどを接収していくことで、漢字文化圏が華北と華中に拡張していった。

孔子および儒教は周の政治を理想の徳治政治と捉え、周の文王(武王の父)・武王・周公旦(武王の弟)を道徳的かつ模範的な君主であり聖人として見ていた。そして、孔子の出身地である曲阜が位置する魯は周公旦が封ぜられた国であり、周王朝の礼制を定めたのが周公旦とされていることから、魯では周公旦以来の伝統を引き継ぎ古い礼制が残っていたとされる。このような背景から孔子は自身を周の礼制を正しく継承していると自認するようになり、それを体現する教団として儒家を形成していく。周の方言であった雅言と呼ばれた洛邑すなわち洛陽の方言(河洛語)は中央の言語=共通言語と位置付けられていくとともに、儒家にとっても権威ある言語となっていった。

laipan
逨盤
laipan
逨盤に刻まれた文字

殷では漢字はその原形となった甲骨文字が本来は貞人(占いをはじめとした祭祀を司る神官)が神との交信を図るための神秘的な神託文字として五穀豊穣を願う雨乞いや、政治や戦争を占うためだけに用いられた。神との対話を行うために内向きの使い方に限定されており、実際に甲骨文字は河南省安陽市の殷墟周辺で発見されるのがほとんどである。一方で、なぜ貞人以外が甲骨文字を使わなかったのかは今もなお不明である。

対する周では人との関係をつなぐ外向きの用途として漢字を利用するようになっていった。例えば、2003年に陝西省眉県で発見された逨盤は周の歴代の王12人(文王・武王・成王・康王・昭王・穆王・共王・懿王・孝王・夷王・厲王・宣王)に仕えた地方勢力の単氏8代にわたる歴史を記したものであるが、そこには「四方の虞林を司り、宮御に用いよ」と周辺の森林を管理して周の王宮の費用とするよう命じるとともに単氏の自治を認める記述があり、周を盟主とする周辺諸国や諸部族との契約を意味するものであった。

漢字はそれ自体が一文字ずつ意味を持っており、現在の中国の方言のように同じ単語でも発音が異なる場合であっても、意味さえ理解しておけば漢字によるコミュニケーションすなわち筆談でもが意思疎通を成立させることができる。周は漢字のこのような特性をうまく利用したものと思われ、周を盟主として戴いた諸国や諸部族でもやがて自分たちで漢字を使用していくことになる。雅言とペアで漢字は用いられるようになり、これが後の中国語における漢字の関係性にも発展していった。

上古中国語のルーツ

中国語はシナ・チベット語族に分類され、殷人は東夷の一部族であったとされる。中原にいたとされる華夏族(後の漢民族の中核的な先祖であったとされる)から見て東方の山東省周辺にいた異民族が東夷とされ、紀元前1600年頃に中原にいたチベット系の羌族の夏王朝を殷人が打ち破った。その後、同じく羌族の一派であった周が殷の西方に当たる陝西省の渭水流域に起こったとされる。

夏・周はチベット語系であり、対する殷はタイ語系と推定されている。漢語とチベット語の話し手は元々は同一の民族(羌族)であったが、それがふたつに分かれて漢民族(周人)は中国本土北西部から黄河流域に沿って東進し、さらに南に勢力を広げていった。チベット語系民族は元の居住地域から追われて(例えば秦によって追われたなど)、黄河の上流に向かって西進して現在の地域に分布するようになったが、南方のビルマ語系民族と類縁関係を持っている。黄河下流域や長江(揚子江)あたりまでにいた夷や蛮と呼ばれたタイ語系の先住民は漢語系民族に同化したり、追われながら南に移っていった。司馬遷(紀元前145年?~紀元前86年?)の記した『史記』などでは夏の第6代目の王少康が庶子の無余を越に封じたのが春秋時代の越国のはじまりとしている。また、周武王の曽祖父とされる古公亶父の子であった太伯と虞仲が弟の季歴に古公の後を継がせるために自ら南方の荊蛮の地に移り住み、興ったのが呉とされる。

歴史学者の岡田英弘氏によると漢字の原型らしきものが発生したのは華中の長江流域とされ、漢字を華北にもたらしたのは長江沿いに南方からさかのぼってきた夏人としている。夏人は南方から水路づたいに都市文明をもたらしたとされる。ただし、注意しなければならない点として、夏王朝が存在したと比定される年代の遺跡として二里頭遺跡・偃師商城・洹北商城などがあるものの、夏王朝の実在を裏付ける考古学資料が今を持っても出土されないのが現状であり、そのような事実に関わらず中国では民族的イデオロギーとして夏は実在したとする学術的見解が一般的である。日本にもこの学説に賛成する学者がいる一方で、台湾や日本の一部の研究者は二里頭遺跡と夏王朝との直接的な関係は薄く、夏王朝の実在をまだまだ認めがたいと主張している。

夏人と同じ系統とされる越人は現在の浙江省・福建省・広東省・広西チワン族自治区・ベトナムに広く分布しており、上海語・福建語・広東語の基層にあるのはタイ系の言語であったとしている。漢化される以前の華中・華南の言語はタイ語系とされ、それらの地域にルーツを持つ夏人のことばもタイ系であったと推測している。また、「雅」とは「夏」と同音であり、商人・商売を意味する「賈」、値段を意味する「価(價)」、ブローカーを意味する「牙」といった語も同じ音であることから、「雅言」とは夏人のことばであったのと同時に市場の言語であり、夏人は賈人すなわち商人も意味していたとしている。夏人は各地の交易を取り仕切る都市住民であった可能性もあり、言語を異にする人々の間で売買のためのマーケットランゲージとして用いられ、そして漢字は夏人・殷人・周人・秦人・越人といった言葉が通じない者同士が交信する記録媒体として発達・活用されていったものと思われる。

上古中国語の特徴

殷および周は上古中国語と分類される初期の中国語が使用されていたとされ、上古中国語は現代における中国の諸言語の祖語であるとも言える。殷の中心は現在の黄河下流であり、周の中心は黄河をさかのぼった陝西省の関中高原で、距離にして両社は東西1,000キロも離れている。相当な距離であり、なおかつシナ・チベット語族かタイ語系かの違いもあり、全く異なる言語同士であったはずではある。両者の言語とりわけ話し言葉は本質的にほぼほぼ似たような文法構造や語彙体系を有していたものと思われる。かつ、異なる語族にも関わらず、殷で誕生した漢字がそのまま周社会にすんなりと導入されたのは言語としての類似点が多かったはずだからである。

殷で発達した甲骨文字はその造字法が『説文解字』を記した許慎(58年?~147年?)が定義するところの漢字の造字および運用の原理である「六書」(象形・指事・会意・形意・形声・仮借)と同一であり、殷代以来現在に至るまでその構造を変えていないことは殷代の言語が周以後の漢語の母体であることを物語っている。その他、修飾語が被修飾語の上に来る、目的語(客語)が動詞の後に来る、補語が下に来る、といった用法が甲骨文の卜辞と後世の漢文との間で大きな違いはない。それは殷代に長い期間を経てすでに文章語を記すための一定の文法が確立していたということでもある。殷代の卜辞の表す言語と周代以降の漢語の間には明らかに繋がっており、著しい断絶は見られない。ただし、当時の話し言葉は知る術はないものの、甲骨文や金文に記録された文章は口語とはかけ離れた形で文語が独自に成立していたものと思われる。

殷は甲骨文字、周は金文で知られ、無論それらから当時の言語というのが推測可能であり、一般的には後の声調につながる子音クラスター(英語の「bread」「clone」「school」「dress」「president」のように子音が重なる現象)のようなものがあったとされ、語頭だけでなく(頭子音)、語尾に見られた(尾子音)。また、周代の単語は基本的には単音節語が多く、それから派生する形で複合語化もしくは畳語化される形で複音節語が増えていった。加えて、中古中国語や現代中国語との大きな違いとして、語およびその語幹の意味関係を示す抑揚で特徴づけられる語形態があった他、代名詞の格が存在していた(現代では客家語と湘語で残るのみ)、接辞や不変化詞による修飾的機能があった、というような特徴があったとされている。

先秦および秦漢における地方語

Meng zi
孟子

『礼記』「王制」には以下のような一文がある。

中国、夷、蛮、戎、狄、皆有安居、和味、宜服、利用、備器、五方之民、言語不通、嗜欲不同。達其志、通其欲、東方曰寄、南方曰象、西方曰狄鞮、北方曰譯。
中国・夷・蛮・戎・狄、皆安居、和味・宜服・利用・備器あり。五方の民、言語通ぜず、嗜欲同じからず。其の志を達し、其の欲を通ずるに、東方のを寄と曰ひ、南方のを象と曰ひ、西方のを狄鞮と曰ひ、北方のを訳と曰ふ
中華・東夷・南蛮・西戎・北狄の民はそれぞれに自分が安住できる場所・美味だと思っている食べ物・自分にあっていると思っている衣服・便利だと思っている道具・良いと思っている器物があり。それぞれの民族に独自の言葉があるために意思疎通ができず、嗜好も異なる。自分の意思を伝え、欲することを通すことを、東方では「寄」、南方では「象」、西方では「狄鞮」、北方では「訳」と呼ぶのである。

中華を中心とした場合に、四方にいる異民族の話す言葉が中華に住む漢民族と異なる認識が秦漢の時代にすでに持たれ、なおかつ中原の言語が必ずしも全世界共通の普遍的なものでないという自覚があったことが分かる。また、同じ漢民族同士であっても地方ごとに話す言葉が全く異なるという認識があったことも当時の資料からは知ることができる。

孔子が生きた春秋戦国時代(紀元前770年~221年)は王位継承争いや権力者の政争で周王朝の権威が失墜した末、後に「戦国七雄(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓)」と称される諸侯の国が覇を競って中国各地に割拠することとなった。諸子百家と呼ばれた思想家たちが富国強兵を進める各地の王に対して政策提案や外交を目的として全国各地を遊説した時代でもある。

儒家の孔子は山東省南部にあった魯の出身、孟子(紀元前372年?~290年?)も山東省南部にあったとされる小国・鄒の出身、同じく儒家の荀子(紀元前298年?~238年?)は河北省南部の趙の出身、法家の韓非子(紀元前280年?~233年)は河北省北部・山東省南部・陝西省東部にあった韓の公子とされ、墨子(紀元前470年?~390年?)については魯・宋・楚など出身地に諸説があり、現在の中国における八大方言のように各地にはそれぞれの固有の地方語があったとされる。

当時活躍した思想家たちの母語はそれぞれ異なっていたとされ、他の地方の人間との意思疎通のために何らかの共通語らしきものがあったのではないかと推定されている。春秋戦国時代の地域間の方言差を窺い知れるものとして以下のようなエピソードがある。

今也南蠻鴃舌之人、非先王之衜。」(『孟子』「滕文公章句上 」)
今や、南蛮鴃舌の人、先王の道を非とす。
今は、モズの鳴き声ような理解不能な言葉である楚語を話す者(楚人の許行)は先王の道は非として何かを説いている。

孟子謂戴不勝曰、子欲子之王之善與、我明吿子。有楚大夫於此、欲其子之齊語也、則使齊人傳諸、使楚人傳諸、曰、使齊人傳之。」(『孟子』「滕文公章句下」)
孟子、戴不勝に謂ひて曰く、子は子の王の善ならんことを欲するか。我明らかにし子に告げん。此に楚の大夫有りて、その子の斉語せんことを欲するや、則ち斉人をして諸に傳たらしめんか。楚人をして諸に傳たらしめんか。曰く、斉人をして諸に傳たらしめん。
孟子は戴不勝にこのように述べた。「あなたは王が善であることを望みますか? 私ははっきりとあなたに伝えましょう。もし、ここに楚の士大夫がいたとして、その子に斉語を話せるようになってもらいたいとするならば、斉人にその教師をさせますか? それとも楚人に教師をさせますか?」 孟子はこう答えた。「斉人に教師役をさせます」と。

hanfeizi
韓非子

孟子曰、否、此非君子之言。齊東野人之語也。」(『孟子』「萬章章句上」)
孟子曰く、否なり、これ君子の言にあらず。斉東の野人の語なり。
(孟子の弟子である咸丘蒙は「古代の帝王である舜が王位に就いた際に堯だけでなく実父の瞽瞍も臣下の礼をとって拝謁したので舜は恐れ謹んで落ち着かなかったと言い、孔子はこれを評して天下の人倫が乱れてしまいそうだと言ったそうですがそうなのでしょうか?」と問うと)孟子は答えた。「違う。それは君子の言葉ではない。それは斉の東に住んでいる野蛮人の方言だ」と。

工匠之子、莫不繼事、而都國之民安習其服。居楚而楚、居越而越、居夏而夏。」(『荀子』「儒效篇」)
(工匠の子、子を継がざること莫く、都国の民その服に安習す。楚に居たりて楚たり、越に居たりて越たり、夏に居たりて夏たり)
工匠の子は(その環境で生まれ育ったために家業を)継がずにはいられず、都市の住民は都市の服装を習慣として着ることを良しとする。楚の国に住めば楚人となり、越の国に住めば越人となる。中華に住めば、華人となるのである。

mozi
墨子

吳王夫差將伐齊。子胥曰、不可。夫齊之與吳也、習俗不同、言語不通、我得其地、不能處。得其民、不得使。」(『呂氏春秋』「貴直論」)
(呉王夫差将に斉を伐たんとす。子胥曰く、不可なり。夫れ斉の呉と、習俗同じくせず、言語通じず、我其の地を得て処する能わず。その民を得て、使うを得ず。)
呉王夫差は斉を攻めようとしていた。そこで臣下の伍子胥はこう言った。「そのようにすべきではないでしょう。斉と呉の習慣や風俗は異なるだけでなく、言葉も異なります。その地を獲得しても統治することはできないでしょう。そして、その民を得ても治めることはできないでしょう」

zhuangzi
荘子

鄭人謂玉未理者璞、周人謂鼠未臘者樸。周人懷璞過鄭賈曰、欲賣樸乎。鄭賈曰、欲之。出其樸、視之、乃鼠也。」(『戦国策』「秦策」)
(鄭人の玉の未だ理めざるを璞と謂ひ、周人の鼠の未だ臘ならざるを樸と謂ふ。周人璞を懐きて鄭賈を過ぎり、曰く、璞を買わんと欲するか。鄭賈曰く、これを欲す。その樸を出し、之を視るに、すなわち鼠なり。)
鄭人はまだ研磨されていない玉を「璞」と呼び、一方で周人は乾物になっていない鼠の肉を(同じ発音で)「樸」と呼ぶ。周人が「璞」を抱きかかえて、鄭から来ている商人を訪れて「璞を買おうとしているというのは本当か?」と聞くと、鄭の商人は「買いたいと思っている」と答えた。周人が「璞」を取り出して、鄭の商人がこれをよく見ると「樸」すなわち鼠の肉であった。

Laozi
老子

楚人謂乳穀、謂虎於菟、故命之曰鬥穀於菟。」(『春秋左氏伝』「宣公四年」)
楚人乳を穀と謂ひ、虎を於菟と謂ふ。故に之を命ずけて鬥穀於菟と曰ふ。
楚人は乳を「穀」と言い、虎を「於菟」と言う。それゆえに(虎の乳で育てられたので)鬥穀於菟と名付けられた。

これらの逸話からは中央の何らかの権威ある中央の言語すわなち共通語的なものがある一方で、地方語が中国各地に存在し、なおかつそれらはほぼ外国語同士のようなものであり、他地方のことばの理解には習得が必要だったということが読み取れる。また、諸子百家のひとつである縦横家の蘇秦(?~紀元前284年?)は燕・趙・楚・韓・魏・斉に対して秦への対抗策として連合すること、すなわち合従連衡を伝えるために各国を遊説している。他の諸子百家同様に蘇秦には共通語の素養があったと同時に(蘇秦は洛邑出身である)、各国語も話せる語学力があったことが推測される。

Yang xiong
揚雄

春秋戦国時代の後代にあたる漢代に揚雄(紀元前53年~紀元18年)が記した『方言』(正式名称は『輶軒使者絶代語釈別国方言』)は当時の各地の方言を集めた方言字書であり、同じ中国大陸でも同書が編まれた漢代の時点ですでに地方によっては言葉が異なるだけではなく、使用する漢字すら異なっているという認識が持たれていることが確認できる。揚雄は文官試験目的に都に集まった地方からの受験者から地方語を採集したとされ、整理が不十分で重複があるものの、首都周辺の秦・晋から、東は朝鮮、南は南楚(現在の湖南省周辺)に及び、当時の方言口頭語の記録としては非常に価値が高く、ここまで規模の大きい調査は明・清の異民族語彙を除いて比類がない。後世に至ると、『方言』は主として古典解釈学の資料として用いられることになった。

『説文解字』では筆を意味する単語の発音の方言間の違いを示している。秦では「筆(pįet)」、楚では「聿(įwǝt)」、呉では「不聿(plįwǝt)」、燕では「弗(pįwet)」であったとされる。上古漢語では「plįǝt」であったとされ、これはチベット語のhbri-ba、ミャンマー語のrei-baに対応する。

ただ、前漢当時は「方言」という名称はなく、「代語」「異国殊語」「殊語」「殊言」「異語」「異俗之語」といった語で方言や地方語といった概念を示していた。方言という語が生まれたのは後漢になってからであり、後漢の許慎(紀元58年?~147年?)によって記された『説文解字』の中で「方言」や「方語」といった語を使用しているのが確認できる。春秋戦国時代末期から前漢ごろに編纂されたとされる『爾雅』も字義分類の字書であるが、『方言』同様に中国各地での方言単語も包括している(しかし、『爾雅』自体にはどの地方の方言かは明記されておらず、東晋の郭璞〔278年~324年〕が記した注釈書『爾雅註疏』に地方について言及した記述が見られる)。また、後漢末に劉熙(生没年不詳)によって記された辞典である『釈名』にも方言による単語の発音の違いを示している。

先秦の著作物の言語について触れると、『詩経』は殷方言・周方言(洛邑方言)とされ、孔子の言行を記した『論語』は孔子の出身地である魯方言、秦漢の時代に至って秦(陝西省)と晋(山西省)の方言が通語すなわち標準語として定着し、「通語」もしくは「凡語」と呼ばれて雅言に取って代わっていったとされる。

権威ある古典語としての文語

Xunzi
荀子

荀子の言行を記した『荀子』「正名篇第二十二」に
後王之成名、刑名従商、爵名従周、文名従礼、散名之加于万物者、即従諸夏之成俗曲期、遠方異俗之郷、即因之而為通
後王の成名は、刑名は商に從い、爵名は周に從い、文名は禮に從う。散名の万物に加わる者は、則ち諸夏の成俗に從い、遠方異俗の鄉にも曲期し、則ち之に因りて而て通ぜしむ。
とある。
刑法は殷(商)王朝のものを、官爵の体系は周王朝のものを、国家の儀礼は周王朝の礼制を、その他万物の名称については中華世界で慣習的に用いられている名称を基準として、中華と習俗を異にする遠方の地でも中華世界の習慣に則って適切な中華の名称を与えるべき、といった意味であり、荀子が生きた戦国時代末期には雅言は時代が変わっても文体が変わらない古典語として残っていたということになる。荀子は人の作為した約束ごとを「偽」という語で表現し、そこには人為的に発生した共通語は「偽」の典型であったと述べている。加えて、荀子は言語を「約定俗成」と述べており、それは人間の約束ごとが定まり、習慣がまとまった結果として言語が誕生したものだと明言している。

Luxun
魯迅

このように古典語は元々は春秋戦国時代の口語に基づいたものであったが、時代が経過するにつれて時代に実際の口語とは乖離が出てくるようになる。文言としての雅言は漢字で写定とされるとその文体は古典という形で固定され、時代が変化しても基本的に大きく変わることはなかった。

漢代の司馬遷(紀元前187年?~紀元前87年?)の『史記』や王充(27年~97年)の『論衡』は春秋戦国時代から発展してきた書面語の完成・洗練されたものであり、不完全ながらも一種の共通の口語を基礎として、文人による加工を施して贅を省き練り上げられたものである。これがいわゆる日本でも馴染みのある「漢文」であり、口語体とは異なる文体を持った「文言文」として現代中国語で定義されているものである。漢代になると古典語としての雅言は字体は変わっても、木簡・竹簡・布帛といった文字を記しにくい材料に漢字で記されていたことからより時制や助字の省略などでより簡略化されていった。

超言語とも呼べる漢字を用いた書面語は文言と呼ばれ、広い空間と時代を超えて意志の伝達を可能たらしめた。漢字によって写定されたこれらの超時間的・超空間的な「文言文」は独自の文体・語法の支配のもとに発達し続け、それは本来基盤としていたはずの口語との乖離が次第に大きくなっていった。また、一語増えれば原則として漢字が一文字増えることとなり、時代が経つにつれて文字数も増えてくる。結果的にそれら漢字を使いこなし、口語とはかけ離れた古典を理解できるのは士大夫層に限られることとなり、漢代から隋唐までの中古の共通語は古典的な文学語であり、具体的には上古の雅言を文字化した古典的文体をほとんどそのまま使いつつも人工的な技巧を加えたものであった。南朝梁で編纂された『文選』はその代表的な文学作品である。

中国における古典語の本質について、魯迅(1881年~1936年)は自著『門外文談』で以下のように述べている。

我的臆測、是以為中國的言文、一向就並不一致的、大原因便是字難寫、只好節省些。當時的口語的摘要、是古人的文。古代的口語的摘要,是後人的古文。所以我們的做古文、是在用了已經並不象形的象形字、未必一定諧聲的諧聲字、在紙上描出今人誰也不說、懂的也不多的、古人的口語的摘要來。你想、這難不難呢?
私が思うに、中国の文語とは一貫性がなく、字を一字一字書き留めることに困難が伴うので、いくらか文を簡略化せざるを得ないのである。そうやって出来上がった当時の口語のメモが古人の文であり、古代の口語のメモが後世でいうところの古文なのだ。だから、我々が古文を作るというのは、もはや象形しないようになった象形文字や、音と字音が一致するとは限らないような諧声文字を用いて、紙の上に現代人が誰もしゃべらないし、判る人も少ないような古代人の口語を書き出すということなのだ。これは難しいであろうか、難しくないのであろうか、考えてみてほしい。

また、約300年間統一国家が不在であったた西晋以後の南北朝時代を終結させて隋を建国した楊堅(541年~604年)に関する記述として『隋書』「巻六十六列伝第三十一」に次のようなものがある。

朕雖不解書語、亦知卿此言不遜也。
朕書語を解せずといえども、また卿の此の言を知るは不遜なり。
私は「書語」は知らないと言っても、お主の発言が不遜なことぐらいは理解しているぞ。

ここで述べられている「書語」とは、文書に記された言葉=漢語の文語であり、文語と口語の分離が当時はっきりと意識されていたことが示すものと考えられている。

秦の始皇帝の文字統一事業

shihuangdi
始皇帝

紀元前221年に中国全土を平定して中国を統一した秦の始皇帝(紀元前259年~210年)は政治の中央集権化を進める中で郡県制を敷くとともに、各地でばらばらの基準で定められた度量衡・馬車の幅軸(車軌)・位取記数法を統一し、交通網や通貨の整備等を進めた。中でも文字統一が重要な事業の一つとされている。漢代の許慎が編纂した『説文解字』によれば、秦では八体と呼ばれる字体が8種類(大篆・小篆・刻符・虫書・摹印・署書・殳書・隷書)存在していたとされ、この内小篆を基準とした書体への統一化を宰相の李斯(?~紀元前208年)が秦国内で進め、後に皇帝が使用する文字を「篆書」とし、標準書体と定めた。これに対して臣下が用いる文字を隷書として秦が征服した地域でも公用文字として使用することを定め、各地での固有書体の使用を廃止している。戦国時代は漢字の使用場面や用途が拡大し、様々な事柄が文字に記録されていった。同時に漢字の地方化も進んでいき、地方ごとで独自の発展を遂げていった。結果として、漢字の字形が地方によって異なっていただけではなく、漢字の用字法もそれぞれで異なっていたことが近年の研究で明らかになっている。

秦に征服される以前の楚では楚文字(楚国文字)と呼ばれる独自に発達した文字を使用されていたとされ、秦の中国統一による文字統一政策で次第に使われなくなり消滅したものと推測されている。また、1950年以降に中国各地で五里牌竹簡(湖南省長沙市・長沙楚墓)・望山竹簡(湖北省江陵県・江陵望山楚墓)・信陽竹簡(中国河南省信陽市・河南信陽長台関楚墓)・馬王堆帛書(湖南省長沙市・馬王堆漢墓)といった竹簡・木簡・帛書と呼ばれる文字資料が発掘され、戦国期から秦に移る過程でも中国各地で独自の文字を使用していたことが窺い知れる。

後世に始皇帝の悪法として伝えられる焚書坑儒は専制政治のために行った思想統制であることは間違いないが、近年発掘された秦漢時代の墳墓から儒家関連の文章が大量の木簡・竹簡・帛書で発見されていることから焚書坑儒はそこまで徹底していたものでもなく、儒家による誇張も若干含んでいたのではと近年の研究では指摘されており、思想統制の一方で旧書体を廃止して篆書体への統一を図るという側面も持っていた。これが一般的に言われる始皇帝の「書同文」の政策であり、中国各地での行政文書処理の効率化や通信網整備に着目したという意味では文字に特化した政策ではあったものの、国家主導の言語政策としては中国史上初といえる。

皇帝による中央集権国家となった秦は郡と県によって中国各地を統治する郡県制を導入し、各地の郡・県に派遣した役人を通じて統治を行っていった。郡と県の長官・副官は皆中央からやってきた官吏であり、官人用語に相当する何らかの共通語で互いに意思疎通を図っていたものと思われる。しかし、現地には土着の方言があり、それを中央からの管理は理解することができないために、最低でも文字が書ける程度の土着の顔役が「吏」として登用されて徴税・賦役・戸口調査などの実務を官民の間に立って行っていた。漢の高祖・劉邦(紀元前247年~紀元前195年)は故郷の沛県(浙江省徐州市)の東にある泗水で亭長(警察分署長)についていた他、劉邦に仕えた蕭何(紀元前257年~紀元前193年)は県の役人で、同じく蕭何の部下にあたる曹参(?~紀元前190年)は刑務所の属吏、夏侯嬰(?~紀元前172年)は県の厩舎係兼御者であったとされる。彼らは「刀筆の吏」すなわち文書仕事に従事していた小官吏であり、官民の通訳の役割も果たしていた。

夷狄世界とその言語の諸相

華中・華南における異民族世界

漢民族には古来より華夷秩序と呼ばれる独特の国際秩序と世界観があった。それは中原を頂点とした中国の領域は世界の中心(中華)であり文明化された土地と位置づけ、反対に中華の東西南北の周辺地域は未開の蛮族が住む土地とする考え方である。それは時代を経るにつれ、世界の中心と見なされた「天子」である皇帝を中心とした中国のヒエラルキーが持つ思想と文化が世界で最上位にあるものとされ、皇帝の徳が及んでいない地域は野蛮で教化されていない禽獣の地として扱い(中心から遠ざかれば遠ざかるほど非文明の度合いが強くなっていく)、周辺の民族や諸外国は東夷・西戎・南蛮・北狄と呼ばれた。そこには当然現代のような国際秩序はせず、諸外国との外交も対等の関係となることはなく、貿易についても周囲の異民族が中華の徳を慕って貢物を進上し、それに対して皇帝が返礼品を下賜する「朝貢」のが基本的な姿勢であった。日本も近代に至るまで伝統的に野蛮な東夷と見做され続け、1840年に勃発したアヘン戦争も当初外交を求めたイギリスに対して夷狄として過度な臣下の礼(三跪九叩頭)を求めたことが遠因のひとつとされている(ただし、国境紛争収拾のために1689年に清がロシアと対等な関係でネルチンスク条約を締結したという例外もある)。

殷・周時代から、淮河と洛水の南の水に恵まれた地域で古くから米作を行っていた夷および蛮と呼ばれた原住民が定住していたとされ、彼らは総称として越族(百越)と呼ばれていた。淮夷・徐夷・東夷とよばれた現在の江蘇省・安徽省北部に住む原住民が紀元前8世紀に魯に討伐されて漢化した。荊蛮と呼ばれた地域には紀元前11世紀頃には楚が誕生した。ただし、楚を成立させたのは黄河流域より移住した諸族の集団が北来したという説と、長江文明由来の土着民族が独自に建国したという説があり、いまだ定説が出ていない。

Huai he map
淮河とその周辺

なお、司馬遷の『史記』では楚の祖先は漢民族の始祖と位置付けられる黄帝の孫である顓頊としている)。南蛮と称された地域については上述の通り紀元前585年に呉(句呉)が誕生し、それに対抗する形で紀元前600年頃に越が建国される。越の都は現在の浙江省紹興市にあったとされ、この地では約6000年前から稲作が行われており、中国神話に見られる禹(夏王朝の始祖)の原形とみられる龍神を治水の神として信仰していたとされる。紀元前475年に越は呉に勝ったものの、紀元前300年頃に楚に討たれ、最終的に秦の平定されることになる。

越について

浙江省東海岸を起源として、江南と呼ばれた長江以南からベトナム北部まで広く分布していた百越は現在のベトナム人(キン族)の直系の祖先とされる。百越で話されていた古越語(百越語)について、詳細について断片的な文献資料や中国語を主とした他言語への借用語から類推する他なく、言語系統はいまだ合意に到ることのできる見解・結論が出ていない。劉向(紀元前77年~紀元後6年)の著作である『説苑』には「越人歌」と呼ばれる越の民謡が見られ、楚語とは異なり、漢字による音表記で『楚辞』に似たような形式となっている。

「越人歌」原文
濫兮抃草濫予昌枑澤予昌州州州焉乎秦胥胥縵予乎昭澶秦踰滲惿隨河湖。

漢文による意訳
今夕何夕兮、搴舟中流。今日何日兮、得與王子同舟。
蒙羞被好兮、不訾詬恥。心幾煩而不絕兮、得知王子。山有木兮木有枝、心悅君兮君不知。

この他、同じように『穆天子伝』(作者・作年ともに不詳)や『越絶書』(後漢初期に成立?)には非漢語系の単語があるとされ、それらはタイ・カダイ語族の単語との共通性が指摘されている。

春秋戦国時代の戦乱を収束させて紀元前221年に中国を初めて統一した秦の始皇帝は長江以南の温暖かつ肥沃な土地が、犀角・象牙・玳瑁・翡翠・真珠・珊瑚といった北方では入手しづらい特産品を扱った沿岸貿易で潤っていたことに目を付け、現在の華南地域や北ベトナムを含んだ嶺南(南嶺山脈以南)を征服するべく遠征を開始する。遠征軍は当初は苦戦するものの、浙江省の甌越や福建省の閩越を平定し、同地を秦の領地として接収していった。紀元前214年に始皇帝は揚子江支流の湘江と西江支流の漓江を結ぶ大運河である霊渠を完成させると、莫大な物資の輸送により嶺南遠征を加速させていき、福建・広東・広西・北ベトナムを秦の版図に組み込んでいった。嶺南征服が完了すると、始皇帝は北方の漢民族を移住させて漢化していき、従来の越の筆記法を廃止して秦の筆記法と中原の言語を導入しようとしたが、始皇帝の死後ほどなくして秦が滅亡し(紀元前210年)、この施策はあえなく頓挫してしまう。

秦の将軍として嶺南に派遣されていた趙佗(紀元前257年~紀元前137年)は秦の滅亡後に劉邦(紀元前202年~紀元前195年)と項羽(紀元前232年~紀元前202年)による楚漢戦争の最中、紀元前203年に南越国として独立を果たす。漢(前漢)建国のまだ混乱が残る時期であったために、趙佗はそれを好機と捉えて閩越や甌越だけではなく、北西(広東省南西部・広西省南部・ベトナム北部一体)の駱越も制圧して、一時は漢に対抗できるだけの勢力を保有していた。しかし、趙佗の死後、南越国は趙佗の孫である趙興(?~紀元前112年)の代より政権内で対立が発生し、これを機と見た漢の武帝(紀元前156年~紀元前87年)によって紀元前111年に滅ぼされる。その後、越人は華南地域より南方に移動し、徴姉妹の乱(42年)のような反乱が頻発し、南下を続ける漢人支配に対して抵抗を繰り返していった。最終的に漢人の勢力圏が華南全域に拡大していったことにより越人はさらなる南下を余儀なくされ、現在のベトナム北部に定着し、968年には丁部領(924年~979年)により丁朝(大瞿越)が建国される。

広東語・閩語(下位方言は閩北語・閩南語・厦門語・潮州語・海南語・台湾語など)・客家語・呉語(下位方言は上海語・蘇州語・温州語・寧波語など)は百越語を基層言語にしたものとされる。広東語はチワン族(壮族)やトン族(侗族)といった少数民族の話すタイ・カダイ語族の影響も受けており、閩語も同じく越の王族によって閩越が建国された際にタイ・カダイ語族に属する現地のことばを吸収してたものと思われ、現代のタイ・カダイ語族と一定の類縁関係があり、それに影響を受けた古代閩越語由来の低層語彙が含まれていることが判明している。また、それら百越語の後裔ともいえる方言は「有音無字」ということばに代表されるように漢字はないが音だけ存在する単語が存在する他、古い中原の発音を保存しているという特徴も有している。

楚について

楚は現在の湖北省・湖南省にあった王権で、周建国からほどなくして周の史書に存在が確認できることから紀元前11世紀頃に紀元前223年に秦に滅ぼされるまでの約800年間存在したとされる。黄河流域の中原とは異なる文明を持ち、長江最大の支流である漢水を支流として江漢平原に発達した独自の文化圏であったとされ、春秋戦国時代の史料からは中原諸国とは異なる固有の文化・習俗があったことが確認できる。

言語についても、孟子が「南蠻鴃舌之人」と呼んでいるように、斉や越同様に中原のいわゆる雅語とは異なるものと春秋戦国時代当時から認識されていた。『春秋左氏伝』に「楚言」と見えるのが楚の言語ついて示した記述の初出であり、この当時は古楚語と定義され、湖北・湖南・長江中流域で用いられていたと考えられている。これが現在の湘語のルーツにあたるとされている。

斉について