唐朝成立の歴史的背景

Yang Jian
隋の初代皇帝 楊堅(高祖)

鮮卑系の出身であった宇文泰(505~556年)は北魏の皇族を擁立して西魏を樹立させると、宇文泰に仕えていた武将楊忠(507~568年)はこれに従い、西魏の軍人として活躍する。557年には西魏の恭帝(537~557年)が宇文泰の第三子・宇文覚(孝閔帝、542~557年)に禅譲したことによって、北周が建国される。楊忠も北周に従うことになるが、楊忠が没すると子の楊堅(541~604年)が後を継ぐ。
楊堅は北周の外戚として権勢を振るい、結果的に581年に北周の静帝から禅譲を受けて隋を建国する。隋王朝初代皇帝・文帝として大興城(後の長安)に都を定めて華北を統一すると、587年には後梁を、589年には陳を滅ぼして西晋滅亡以来約300年ぶりに中国を再統一することになる。

Yang Di
隋の煬帝

604年に楊堅が没すると、第2代皇帝に次男の煬帝(楊広、569~618年)が即位する。煬帝は国策として大運河開削や4回に及ぶ高句麗遠征などを積極的に行ったため、これが結果的に国力の疲弊や民衆の不満を招くことになり、煬帝に仕えた楊素(?~606年)の子・楊玄感(?~613年)の武装蜂起をきっかけに中国全土に反乱が拡大した。各地で群雄が割拠する中で、太原の留守であった李淵(566~635年)は617年に挙兵し、618年には煬帝の孫にあたる恭帝(楊侑、605~619)から禅譲されるという形をとって李淵は初代皇帝(高祖)として唐を建国する。同年煬帝は臣下によるクーデーターにより自害し、わずか37年で隋は滅亡、約300年にわたる唐による統治が始まることになる。

唐の政治

Li Yuan
唐の初代皇帝 李淵(高祖)

唐が建国した618年から630年まで中国大陸では各地に群雄が割拠し、唐による政治が安定しない動乱の時期が続いた。その間、許・鄭・夏・定楊・梁・秦・涼・呉・楚・宋といった国が各地に乱立したものの、次第に国自体が自滅する、もしくは李淵の勢力により滅ぼされていった。
李淵の次男であった李世民(598~649年)は626年に玄武門の変で兄弟である長男の李建成(589~626年)と四男の李元吉(603~626年)を暗殺すると、父である高祖李淵に退位を迫り、自身は第二代皇帝太宗に即位する。
李世民は外交政策として中国北方および西方を支配していた突厥を征服すると、突厥の支配下にあった鉄勒諸部から「天可汗(テングリ・カガン)」の称号を得て、続いて635年に現在の青海省に勢力を保っていた吐谷渾を撃破したほか、チベットの吐蕃も支配下に収めた。640年には現在の新疆ウィグル自治区トルファン市にあった高昌国を滅ぼしている。

Li Shimin
唐の第二代皇帝 太宗(李世民)

李世民の治世は「貞観の治」と呼ばれ、皇太子時代からの腹心とともに内政に努めたことで、国政が安定した時期とされている(ただし、建国間もない時期にここまで戦乱から国力を回復できたかどうか疑わしい点もあり、後世に太平の世の手本とされたこの時代の記録である『貞観政要』も実態とは異なる脚色が含まれているとの説もある)。太宗から7代後の玄宗(李隆基、685~762年)は712年に即位すると、玄宗の治世も内政の安定に努めたことから「開元の治」と呼ばれ、中国史上で安定した政治期間のひとつとなった。
唐の政治制度は隋代の均田制・租庸調制・府兵制を継承し、その実行のために本籍地で戸籍台帳と租税台帳の作成、かつ律令格式と呼ばれた法典・三省(中書省、門下省、尚書省)・六部(三省の決定方針の執行機関)・御史台(官吏の監察機関)を整備することで、律令制を根幹として中央集権化と法治主義の徹底を行った。

Xuan Zong
唐の第九代皇帝 玄宗

また、隋の楊堅の時代より本格的に優秀な管理を登用する試験制度として科挙が行われるようになり、唐も科挙制度を踏襲することになり、身分を問わず才能のある人材を確保するこの制度は当時としては世界的に見ても非常に画期的であり、後代の宋・元・明・清でも中央政府の官僚すなわち士大夫を生み出すシステムとして機能していった。
皇帝を中心とした唐の中央集権政治の社会制度を参考にしようと他の東アジア諸国からこぞって長安に使節を派遣し、日本からも遣唐使が派遣された。

唐代の経済

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長安(現在の西安)の大慈恩寺

均田制の導入により、唐代の農民は永業田と呼ばれる世襲可能な田畑が80畝(約7933.6㎡)が支給された他、60歳で朝廷に返還する義務のある口分田20畝(約1983.47㎡)が支給された。永業田がクワ・ニレ・ナツメといった果樹を栽培するのに対して、口分田は主に粟を穀物を育てるものであり、唐初では穀物の年貢である租として粟が収められていた。唐初以降は粉食が一般的になったことから麦が栽培されるようになり、華北では麦栽培の普及とともに粟と麦を組み合わせた二年三毛作が行われるようになる。

また、唐代の都城は基本的には城壁で囲まれ、さらに都城の中は坊墻という内壁で区切られた「坊」で区画されており、唐代前半ではその中で「市」と呼ばれたエリアで定められた時間内での商業活動が許可されていた。市では客商(行商人)・座賈(実店舗を持つ商人)が活動を行っており、市の内部は取扱商材によって一か所にまとめられ、それらを「行」と呼んだ。「行」は後に同業者組合(ギルド)として発展していった。

また、客商の便宜を図るために「邸店」という商品の長期保管をする倉庫と宿泊施設の機能を備えた施設が都市部に設置された。当時のことばで「肆」は商店を指し、「邸」や「店」は専ら宿泊施設を指していたために、これが現代中国語における「酒店」や「飯店」といった単語の由来となっている。邸店は時として王侯貴族によって営まれることもあり、時代によっては禁止もしくは課税することによって活動を制約しようとする動きもあったが、邸店の発展がそのまま経済の発達に直結していたことから実際には完全な抑制は難しかった。商業と交易の発達に伴い、現金方式での決済では不便を生じるようになっていたことから、邸店が分化することによって唐代中期からは客商のために専用で銭貨を預かる櫃坊が生まれた。邸店は櫃坊の専業に転業し、もしくは兼業するようになっていった。櫃坊は客商の貨幣を預かる他、寄託賃を取ることで行商の商品を担保として支払いを代行した。櫃坊は、現金方式における不便さを解消し、商業の発展をうながした。

商業活動が盛んになると次第に指定された「市」以外で商売を行う商人が増えてきた他、元々禁止されていた夜間営業も行われるようになった。このような実情から「坊」を用いた「市」を管理するシステムが崩壊することとなり、「市」を管轄していた市署の存在も有名無実化する。加えて都市部だけではなく、交通の要衝にあった地方の農村部でも「草市」と呼ばれた商業活動を行う場所が出現するようになる。

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ネストリウス派の祭礼を描いた高昌景教寺院壁画

加えて、唐は第三代の高宗の時代までに北方の突厥、東方の高句麗を撃破したことで東アジアに一定の国際秩序をもたらした。周辺地域とはすべて一律の同じ外交政策を行ったわけではなく、国・地域・民族に応じて冊封体制・朝貢・羈縻政策を使い分けたが、唐の国際秩序下で周辺諸国および諸民族との活発な交流を招くようになり、世界帝国の様相を呈した首都長安には世界各地から商人や使節が集まり、国際的に繁栄するまでに至った。これにより、長安だけでもゾロアスター教(祆教)・マニ教(摩尼教)・イスラーム教(回教または清真教)・ネストリウス派キリスト教(景教)の寺院が多数建立され、中国史上でも稀な国際色豊かな時代となっていった。
西域との交流も盛んであり、ササン朝ペルシアをはじめとしたイスラム世界や東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とも接触し、いわゆるシルクロード交易が行われ、「大食」と呼ばれたアラビア系ムスリムやソグド人(ウズベキスタンの都市サマルカンドを中心としたソグディアナ地方を原住地とするイラン系民族)の商人が活躍した。西域の文物はシルクロードを経て日本に伝わり、奈良の正倉院に収蔵されている宝物には西域で作られたもの、もしくは西域産の材料で作製されたものもある。
陸路の交易だけでなく、海路による交易も発達し、第九代の玄宗の時代には714年に現在の広東省の広州には市舶使(後代では市舶司と呼ばれる)が設置され、交易船の徴税をはじめとした税関的な役割を果たしていた(ただし、市舶使は常設の役所ではなく、貿易自体は節度使や宦官によって行われた)。また、広州には大食商人の居留地として蕃坊が設けられた。

唐代の文化

Du Fu
杜甫

唐代は中国史上でも漢詩の黄金期とされ、南宋の厳羽(生没年不詳)により唐代を初唐・盛唐・中唐・晩唐と区分するのが一般的になっている。
初唐の時期(618~712年)には六朝の流れを受けて五言・七言・絶句・律詩の近体詩のスタイルが確立され、初唐四傑と称される王勃(650?~675?年)・楊炯(?~692年)・盧照鄰(637?~689年)・駱賓王(640~684?年)が第三代皇帝の高宗の時期に活躍した。

 

Li Bo
李白

盛唐(712~762年)は李白(701~762年)・杜甫(712~770年)を代表として、孟浩然(689年~740年)・王維(699年~759年)といった詩人を輩出している。
中唐(763~840年)には白居易(772~864年)・元稹(779~831年)がいるが、韓愈(768~824年)や柳宗元(773~819年)を中心に古文復興運動が興り、それまでの魏晋南北朝以来の修辞的技巧や言葉の華麗さを重視する四六駢儷文から先秦・漢代の文体を規範とした新しい文体の使用を提唱した。晩唐(840~907年)には杜牧(803~853年)・李商隠(812~858年)が活躍している。

 

Xuanzang
玄奘三蔵

宗教については、儒教は不遇の時代とされるほど大きな動きはなく、むしろ唐代初頭の『五経正義』が編纂され科挙試験の科目として整備されていったものの、それが儒教思想の固定化・硬化を招いたために、むしろ自由な哲学思想として仏教が大きく発達していった。唐代には中国独自で仏教が発展した結果、華厳宗・天台宗・浄土宗・真言宗・律宗といった新宗派が誕生した他、6世紀にインドの達磨大師が伝えた座禅の修業を中心とした禅宗も独自に発展を遂げた。玄奘三蔵(602~664年)がインドに渡って仏教研究を行い、鳩摩羅什(350~409年)の漢訳仏典に対して新訳と呼ばれる漢訳仏典は中国における仏教の発展に大きく大きく寄与した。同じく義浄(635~713年)もインドにわたって仏教を学び、中国帰国後には多くの仏典の漢訳を行い、のちの東アジア世界で仏教における仏典の標準となった。唐の仏教統制政策は朝鮮半島の新羅を経由して日本にも伝わり、唐招提寺に鑑真を招いた他、東大寺建立など鎮護国家仏教として確立していった。

また、道教の創始的存在とされる老子の子孫であると唐朝の皇室は自認していたこともあって(もちろん老子=李耳が李淵・李世民一族を証明する証拠もなく、李淵一族はむしろ鮮卑系と捉えるのが現在では一般的)、道教が国教化した時代でもあるが、845年には唐の武宗による大規模な仏教弾圧である会昌の廃仏が起きた。この仏教弾圧を含めて、446年の北魏の太宗による弾圧と955年の北周の世宗による弾圧は「三武一宗の法難」と呼ばれる。

唐代の中国語

伝奇小説

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遊仙窟の綫装本

北京官話、のちの現代中国につながる北京方言の祖語は唐末とその後代の五代にあるとされている。長らく中国では文言文(書面語)のみで文章を書くことが正統とされてきたが、南朝宋の劉義慶(403~444年)の『世説新語』にはすでに口語体を用いた記述が見られるだけでなく、李百薬(565~648年)が太宗の治世である636年に編纂を完成させた『北斉書』、張鷟(658~730年)が記したとされる伝奇小説『遊仙窟』にも当時の口語を反映させたと思われる新しい文体が見られるようになった。唐代に成立した伝奇小説というジャンルは六朝時代に誕生した志怪小説に起源を求めることができ、志怪小説は超自然的な怪異譚や逸話を書き記す程度も書き物に過ぎなかった。しかし、唐代中期になると明らかなフィクションである文学作品である短編小説の一種として誕生した、唐代には正統な教養のある文人が書いていたということもありまだまだ書面語での記述が大半であった。

後の宋代になると「筆記」というジャンルが生み出され、このジャンルは文字通り記録物という定義以外にも、伝奇小説の系統を組む文言文による短編小説「筆記小説」も含まれ、怪異譚が主流であった。これとは別に宋代には白話による語り物=白話小説も生まれる。白話の「白」とは「説白・対白(芝居の台詞))」の白、「清白(すっきりとした)」の白、「明白(よくわかる)」の白を意味しており、複雑かつ修辞的美しさを求めるあまり難解になりがちな文言文の対義語とされる。

初唐に王度(584?~621?年)が記した『古鏡記』が唐代最初期の伝奇小説とされ(『遊仙窟』の成立年代も初唐)、後の『西遊記』に大きな影響を与えたとされる作者不明の作品『補江総白猿伝』もこの時期の伝奇小説である。

安史の乱以後の中唐には、陳玄祐(生没年不詳)の『離魂記』、沈既済(750?~800?年)の『枕中記』、許堯佐(生没年不詳)の 『任氏伝』、李朝威(766~820年)の『柳毅伝』、李景亮(生没年不詳)の『李章武伝』、 蒋防(792~835年) の『霍小玉伝』、李公佐(778~848年) の『南柯太守伝』といった作品がある。この時期の作品は後世の文学作品にも大きな影響を与えており、『離魂記』は元代の鄭光祖(1260~1320年)による元曲 『倩女離魂』の題材に、『枕中記』はいわゆる「邯鄲の夢」として有名であり日本では能の演目『邯鄲』や芥川龍之介(1892~1927年)の短編小説『黄粱夢』の題材になった。『霍小玉伝』は明代に湯顕祖(1550~1616年)による崑劇 『紫釵』の底本となった。

変文

唐代の白話として有名なものに変文がある。唐の首都長安などの仏教寺院で行われた民衆向けの説法・教化は「俗講」と呼ばれ、絵・散文・韻文などを用いており、「変」もしくは「変相」と名付けられた絵画を用いて俗講を行う際の台本が変文と呼ばれていた。民衆教化の手段として講唱が発達していく中で、経典の一句を分かりやすく説いた「講経文」という写本が経(経典)・白(台詞)・唱(歌唱)の三段構成であるのに対して、変文は「変」を示しながら「白」と「唱」で説法するという方法で構成されているのが変文の大きな特徴である。

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降魔変文

変文は六朝時代に行われた通俗的説法である「唱導」から発展したものと考えられ、唱導は仏典の内容を平易に節回し良く語り聞かせるものであり、この伝統的な手法を継承したのが唐代の「講経文」であり,『法華経』や『維摩経』といった経典の原文を初めから一節ずつ引用しつつ解説し,さらにそれを五言や七言の韻文で詠唱するという三段の形式を繰り返すスタイルであった。

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孟姜女変文

俗講は元々は布教や教化のための手段であったが(インドから仏教が伝播された際に同時に中国にもたらされたともされる)、唐末五代になると世俗的な民間伝承も次第に取り込むようになった。敦煌で見つかった変文として、「降魔変文一巻」「大目乾連冥間救母変文一巻」「八相変」「頻婆羅王后宮女綏女功徳意供養塔生天因縁変」「漢将王陵変」「漢八年楚漢興漢王陵変一鋪」「舜子変」「舜子至孝変文一巻」「劉家太子変一巻」といったものがあるが(計18種の変文が確認されている)、「漢将王陵変」以下5作品は仏教説話ではなく、中国の故事をテーマとした講唱の種本である。
変文は俗語・俗字に満ち、内容も情緒的であり、現実の生活の反映したと思われる習俗や諺的表現が豊富で、説話性に富んで,通俗文学的性格が見受けられる。主として都市の寺院で僧侶が信者を対象として説法したが、のちには通俗的な内容のものは「変場」と称された寄席でこれを語る「変家」と呼ばれる専門の講談師も誕生した。 俗文学として発展していくことになった結果、宗教性は薄れて娯楽性が高まることで宋代の説話文学につながっていった。

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膨大な量の文書群が発見された敦煌の莫高窟

また、本来の講唱としての変文は宋代には形を変えて名称が忘れられ、その存在自体すら忘れ去られていった。1900年になると敦煌市の莫高窟の壁の中に封印されていた大量の文書群を道士の王円籙が偶然発見し、それらは唐代および唐代以前の様々な分野の記録が残る貴重な文字資料であった。いわゆる敦煌文書は宋代の印刷技術が発明される以前の手書きによる写本であり、漢語だけでなくチベット語・サンスクリット語・ウイグル語・モンゴル語・ソグド語・西夏語といった多言語で書かれ、変文などの仏典に限らず売買契約書・私塾の教科書など本来であれば残すはずのないような文書・文献・記録が奇跡的に保存されていたことで当時の言語・文化・習慣・民俗・政治制度を知る上で貴重な資料となった。

語録

Yi Xiuan
臨済宗開祖の臨済義玄

仏教の禅宗において祖師の年譜・伝記といった記録を集成したものを「語録」と呼び、唐代に誕生した。唐代に誕生した語録では口語が数多く用いられた。本来は年譜・伝記を筆録したものだけを指していたが、後に説法や言行といった内容も含まれるようになった。唐代以降、禅宗の発展とともに従来の訓詁(字句の解釈)中心の著述以外に、すぐれた師弟の日常茶飯の語を尊ぶ風潮が生まれ、新しい語録の編集が盛んとなった。観念的な知識の習得ではなく、人格と人格との交流による体得を重視した禅宗では語録が重視され、唐代に臨済宗開祖である臨済義玄の法語を弟子の三聖慧然が記録した『臨済録』や同じく禅宗の一派である南宗の僧・慧能(曹渓大師)の説法を弟子の法海が書き記した『六祖壇経』が代表的な語録である。中国古来の文言文にありがちな美辞麗句に頼ることなく、道理を伝えることを目的に筆録体の散文で記された。宋代には儒学(朱子学)でもこの用語が使われるようになり、朱熹の『朱子語類』や朱熹・呂祖謙共著の『近思録』といった語録も誕生する。後に語録は偉人や有名人の言葉や短文を集めた名言集といった意味に転じ、『毛沢東語録』といった使われ方をしている。