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晋代~五胡十六国時代の華北の情勢
中華世界に影響を与えた匈奴・鮮卑などの五胡十六国時代
秦の後に中国を統一した漢(後漢)が220年に魏の文帝(曹丕、187年~226年)に禅譲する形で滅亡した後、三国時代を経て、280年に晋(西晋)により約100年ぶりに中国統一がなされた。魏に仕えていた司馬懿(179年~251年)とその子司馬昭(211年~265年)は次第に魏の朝廷の実権を握るようになり、司馬懿の孫である司馬炎(236年~290年)の代になるとついには魏の元帝(曹奐、246年~302年)より禅譲されて晋を建国する。司馬炎は晋の初代皇帝(武帝)に即位したものの、中国大陸の統一事業を完成させると急速に政治へ意欲を失ったことで政治が大いに乱れ、朝廷を支える人材も欠乏していった。司馬炎死後の290年になると晋王朝の王族同士による抗争が起き、八王の乱と呼ばれる内乱に発展し、隋の建国までの約300年間統一王朝不在となった動乱の時代の幕開けとなった。晋は311年に永嘉の乱により事実上滅亡することになる。
中国の北方では紀元前3世紀~紀元前1世紀には遊牧民族の部族連合体である匈奴の勢力が拡大しつつあり、時として秦や漢を脅かす存在になっていた。漢王朝の対外政策として、匈奴・氐・羌といった周辺民族を征服すると、被征服諸民族を生み出し、彼らを次々と関中や山西西部に移住させることによって胡漢雑居の状態を漢帝国内に作り出していくという矛盾を生み出していった。
また、漢帝国の領外では、前漢の宣帝(紀元前91年~48年)の治世(紀元前60年頃)になると匈奴が東西に分裂し、さらに後漢の光武帝(劉秀、紀元前5年~紀元57年)の時代になると紀元48年には東匈奴が南北に分裂、その一部が漢に入朝したのを機に中国近縁の地に定住することとなった。北匈奴は2世紀頃に現在の中国・カザフスタン・キルギスタンに跨る天山山脈北方にいたという記事が『後漢書』にあるのを最後に中国史から姿を消すこととなる(後にゴート族やゲルマン民族などのヨーロッパへの民族移動を促したフン族と何らかの繋がりがあるのではないかともされている。匈奴とフン族の関係性を裏付けることのできる証拠が現段階では見つかっていないが、否定もしきれないのも事実である)。
後漢や三国時代の魏では匈奴や鮮卑(春秋戦国時代から秦代にかけて内モンゴル東部から満州西部にいた遊牧民族である東胡の末裔とされる部族)を傭兵として雇い入れるようになり、後に前趙を建国することになる劉淵(251年?~310年)は南匈奴の単于=部族長の子孫とされ、劉淵自身も当初は将軍として晋に仕えていた。
八王の乱に乗じ、華北ではこれを機と見て北方の遊牧民族の動きが活発となり、晋を滅ぼした前趙をはじめとして、四川の成漢や甘粛の前涼といった匈奴・鮮卑・羯・氐・羌による異民族王朝の興亡が繰り返す五胡十六国時代(304~439年)に突入することとなった。前趙滅亡後は、甘粛省や陝西省に存在した氐族出身の苻堅(338年~385年)が建国した前秦(351年~394年)や、鮮卑族の拓跋部の拓跋珪(371~409年)により創建された北魏(386~535年)など、文字通り非漢民族の様々な異民族王朝が勃興した。北魏は439年に華北を統一したことにより、五胡十六国時代は終焉を迎える。
後漢以降の度重なる戦乱と飢餓により約5,600万人いたとされる中国の人口は三国時代には約760万人まで激減したと推定され、またこの時期に華北では人口激減による空白地の発生や度重なる民族大移動は異民族の言語の流入を招き、洛陽を中心とした中原において中国語に大きな変化をもたらした。流入してきた異民族の言語の影響で、周代~漢代の中国語の発音(上古音)に見られたkl(klam:監)、pl(plum:風)、sl(slum:史)のような複雑な重子音が消滅し、単純化していったとされる。
北魏および華北諸王朝の言語政策
鮮卑王朝である北魏は華北統一後、従来の部族制を解体して中国王朝風に貴族制に基づく政治を行っていった。政権樹立当初は少なくとも軍事においては鮮卑語で行われ、鮮卑語を理解する漢人士族が存在していたようであり、漢人の北魏の政権への参画があったとされ、樹立当初の北魏では二重言語使用の社会であったと推定される。
しかし、第三代皇帝の太武帝(拓跋燾、408年~452年)の治世となると、北魏の華北支配に伴い北方異民族の移民は440年代には減少するようになり、450年代ともなるとほぼほぼ移民はなくなって華北社会は安定しつつあった。こういった事情もあり、道士の寇謙之(365年~448年)が漢人官僚の崔浩(381年?~450年?)とともに行った進言により当時華南に存在していた南朝を参考にして貴族社会を性急に進めようとしただけでなく、鮮卑と漢族の融合を図るべく漢化政策を行った(同時に寇謙之の画策により太武帝が道教の保護を目的として仏教弾圧政策も行った)。崔浩が漢化政策を行った理由として、鮮卑族が元々文字を持たない民族であり、上意伝達が口頭で行われることが多々あり、その大部分に鮮卑語が介在していたからとの指摘もある。
また、続く第六代皇帝の孝文帝(拓跋宏または元宏、467年~499年)の時代には親政によって洛陽への遷都を皮切りに漢化政策がより鮮明になる。鮮卑姓から漢風の姓に改めるよう推し進め(国姓=帝室の姓も「拓跋」から「元」にした)、鮮卑の習俗の禁止や鮮卑的な官名の排除を行っただけでなく、加えて部分的に九品官人法を導入することで南朝を模した貴族制社会を構築するといった政策も行う。
積極的な漢語(洛陽方言)の使用を推し進めるためにも、鮮卑語についても部分的な使用を禁止した。鮮卑語は全面的な使用禁止であったと思われがちであるが、実際には宮廷での使用を禁止したものであり(当時30歳以上の者は免除されるという例外もあった)、かつ拓跋部の人々が華北の生活に慣れるにつれて胡語を忘れてしまうことを懸念して鮮卑貴族の子弟にたいして胡語を教育していったとされる。加えて、孝文帝は臣下に命じて経書のひとつである『孝経』を胡語に翻訳させて『国語孝経』を作らせ、儒教における孝の精神を鮮卑貴族に理解させようと試みている。
孝文帝が漢化を強く推し進めたのは中華文明に対する憧憬があったからとされているが、必ずしもそうではなく北魏にとって行政上漢化したシステムが必要であったとの解釈も近年発表されている。また、このような漢化政策が後の隋や唐による中国再統一の基礎になったとの指摘もある。しかし、この漢化政策が鮮卑族の反感を招く結果となり、北魏の北方の辺境地帯に設置された鎮が冷遇されたことに不満を持ったことから523年には六鎮の乱が起こる。
北魏に続く、北斉(550年~577年)も鮮卑化した高歓(496年~547年)が六鎮の乱を機に北魏の実権を握り、孝文帝の曽孫にあたる孝静帝(元善見、524年~552年)を擁立して東魏を打ち立てたことに由来する。結果的に高歓の子である高洋(526年~559年)が孝静帝より禅譲を受けて北斉を建国する。創業者の高歓が鮮卑化した漢人であったこともあり、再び鮮卑主義を尊ぶ風潮が生まれ、政治・軍事の場で用いられただけではなく、漢人官僚が子弟に積極的に習わせようとするなど、北魏初期同様に鮮卑語を共通言語として用いられていたという。
北魏の継承国家である西魏(535年~556年)は宇文泰(505年~556年)に擁立された北魏の皇族による国家であったが、最終的に宇文泰の子・宇文覚(542年~557年)が北魏の恭帝から禅譲を受けて北周(556年~581年)を建国する。
北周は儒教の経典のひとつである『周礼』に基づいた官制があるなど北魏同様に漢風の行政システムを取る一方で、鮮卑復古主義を掲げていたことから公用語を鮮卑語としただけでなく、鮮卑風に国家の儀礼を改めたり、領土内の漢人の姓を鮮卑風の姓にするなど政策を行っていた。
北朝の言語と文化の諸相
文芸・芸術などの分野で先進的であった南朝では数々の貴重な典籍が蔵書保管されており比較的入手しやすいものの、一方の北朝ではそれが手に入りづらいということが多々あった。北魏の歴史家であり官僚であった崔鴻(478年~525年)は五胡十六国時代の歴史を記した『十六国春秋』を編纂するにあたって史料収集を行っていたが、一部の資料が南朝にしかないためになかなか入手できなかったという逸話が北魏の正史である『魏書』に見られる。この他、北朝と南朝は常に対立・緊張状態にあったと思われがちであるが、時として華北の王朝と華南の王朝が互いに使者を派遣していたこともあり(ただし、対等な関係で相互遣使していたわけではない)、北斉では蔵書家と知られる人物が南朝に派遣された際には大量の典籍を華南の地で入手していたとされ、これも北朝では南朝の漢語すなわち正統とされた中原の言葉で書かれた漢籍に触れる機会があまりなかったものと推測される。
また、五胡十六国時代の特性という点に目を向けると、北方の異民族経由で北方や西域の文化・習慣が中国=中原に伝播された時代でもあり、それらは漢民族の文化に融合されていった。例えば、後漢末期には西域の家具として「胡床」と呼ばれた折りたたみ式の椅子や「胡牀」と呼ばれた背もたれ付きの椅子などが伝わり、中国には椅子に座る習慣が定着した。また、食文化においても、北方の異民族の影響で羊肉を食べる文化が生まれたほか、小麦は原産地がイラン・イラク・トルコ一帯を含めた東地中海沿岸地域とされ、その食文化もシルクロード経由で本格的にもたらされていった。中国に伝わった当初は麦はつぶして押し麦にしたものを煮て食べていたとされるが、前漢になるとひき臼(中国語では「碾子」と呼ばれる)が伝わり製粉が可能となった。賈思勰(生没年不詳)の『斉民要術』は北魏に記された総合農書であり、小麦粉を使った料理として「餅(穀物粉の用いて作った円盤状の食品)」や「麺(本来は粉食全般を指す語だったが後に現在のような麺類を示す語ともなった)」といった語が見られる。同書は記されたのは中世寒冷期(200~700年)に相当する時期であったため、北方の遊牧民の牧畜社会が南下したことにより漢人社会に酪農に関する食文化や牧畜技術が伝えられた背景もあったことから、一定の需要や必要性が華北社会に存在していたものとされる。この他、中央アジアのフェルガナ原産のエンドウ、西アジア原産のホウレンソウ、中近東原産のブドウ、インド南西部原産のコショウ、アフリカ原産のゴマといった農作物が西域より中国に伝来している。
華南における南朝の情勢
東晋における社会の二重言語構造
劉淵により晋が滅ぼされると、晋の皇族のひとりであった司馬睿(276年~323年)は317年に三国時代の呉の故地である建康(建業=現在の南京市)に遷都し、周囲に擁立されて東晋を建国する。晋に滅ぼされた後の建康は、華北で八王の乱や永嘉の乱といった戦禍に巻き込まれているのとは対照的に地元豪族の連帯により比較的平穏であった。このことから戦乱を逃れて華南に避難した難民を受け入れる役割を建康を含めた長江下流域、いわゆる江南の地は果たしていた。このような大規模な民族移動は後に「衣冠南渡、八姓入閩」と形容され(このフレーズは文字通り、閩=福建やさらにその南の粵=広東にまで避難民が移動したという意味である)、「衣冠」とあるように晋の貴族や官僚も難を逃れて江南に移り住んだため、宮廷での公用語すなわち洛陽方言(中原雅音)がもたらされ、それがそのまま建康の貴族や官僚などの上級社会の言語となりつつ、秦漢以来独自に発展を遂げた現地語の呉語と融合しながら正統な中原の言葉の系統を保つ権威ある言語=南方標準語として形成されていった。これを金陵雅音と呼ぶ(士音とも呼ばれる)。
南朝の貴族社会は、支配者階層として士人と一般民衆である庶人とで大きく分かれ、さらに士人は中原から逃れてきた河北の世族(僑人)と在地の有力豪族である南士(呉人)に区別される。このうち士人層に権威ある語として話されていたのは僑人の言語である中原雅音であった。とはいえ、南朝宋の劉義慶(403年~444年)が記した『世説新語』で「方作洛生詠(洛陽の儒生が読誦するような発音)」と表現されるように旧都の声とでも呼ぶべき文化的素養を南士が有することもあり、それによって栄達した者も少なくはない。例外的に、庶人の間では例えば南朝斉に仕えた王敬則(435年~498年)が寒門出身であることから相手の身分に関わらず常に「呉語」を使っており、中原雅言を使いこなせなかった故に詩作をすることはなかったと言われている。ここで言う南朝貴族社会の言語とは洛陽方言の口語であるとともに、読書音の体系でもあったと考えて差し支えない。その一方で、南士たちは庶人との会話や家庭内での会話は呉語であったとしても、南朝の官界においては北方の言語を用いるか、用いるように努力したことが『世説新語』といった当時の資料は示している。
北斉の顔之推(531年~590年?)によって記された『顔氏家訓』「音辞編」に以下のような一文がある。
「南方水土和柔、其音清舉而切詣、失在浮淺、其辭多鄙俗。北方山川深厚、其音沈濁而鈋鈍。得其質直、其辭多古語。然冠冕君子、南方為優、閭里小人,北方為愈。易服而與之談、南方士庶、數言可辯。隔垣而聽其語、北方朝野、終日難分。而南染吳越、北雜夷虜。皆有深弊、不可具論。」
(南方は水土和柔にして、其の音清挙にして切詣なり。失は浮浅にあり、其の辞は鄙俗を多くす。北方は山川深厚にして、其の音沈濁にして鈋鈍なり。その質直たるを得て、其の辞は古語を多くす。然れども、冠冕の君子は南方を優と為し、閭里の小人は北方を愈と為す。服を易えて之を談ずるに、南方の士庶は数言にて弁ずるべし。垣を経てその語を聞くに、北方の朝野は終日分け難し。而れども南染呉越にして、北雑夷虜なり。皆深弊有りて、具に論ずるべからず。)
南方は風土が穏やかで、その発音は澄んで伸び伸びと軽やかであるが、残念ながら軽佻浮薄のきらいがあり、卑俗な言葉が多く混じっている。北方は自然が雄大で、その発音は重く濁り鈍ってはいるが、飾り気がないところが良く、古い言葉を残している。とはいえ、高位高官の人物の言葉は南方が優れているが、一方の庶民の言葉は北方が勝っている。衣服を取り替えて話をしても、南方の高貴な者と卑賎な者とでは、少し言葉を交わせばすぐに見分けがつく。一方、垣根越しに話をするのであれば、北方の高貴な者と卑賎な者は一日中話をしても区別がつかない。けれども、南方は呉越の風に染まり、北方は異民族の影響を受けている。どちらも悪習が染み込んでしまっており、今ではこれを論ずることはできない。
これは南北朝時代の南北それぞれの言語を欠点を叙述している。北方の異民族が中華の地に侵入して以来、中原の貴族の多くは長江下流域に移り住むようになった。南朝の高貴な士大夫の言葉は依然として「北音」を正統としており、かたや民衆の言葉は多くが呉語であった。これに対し、北方の中原地方では身分が異なっても、言葉に差異はない。しかし、北方の言葉は異民族の発音が混じり、言葉がしばしば正しくないので、かえって南方の高貴な士大夫の発音が上品で教養があるのに及ばないということを伝え、かつ一般の民衆はというと南方人の発音は卑俗であって、北方人の発音が適切なのには及ぶことがないことを示唆している。そして、社会的階層に応じて大きく異なる言語を使用しているのが南方の社会であるのに対して、北方ではその差は顕在化しておらず、南方士大夫の言語>北方人の言語>南方の庶族・民衆の言語というような図式で優劣を論じている。
東晋以降の南朝社会と文化
東晋以後、華南には宋(420年~479年)、斉(479年~502年)、梁(502年~557年)、陳(557年~589年)といった王朝が短命ながらも興こり、それらの時代は呉・東晋を含めて六朝時代と呼ばれる。長江下流域の江南をはじめたとした華南では正統王朝が都をおき、なおかつ大量の移民が流入したことにより水田造成やそのための水路・溜池の灌漑施設の整備といった土地開発が一気に加速した。また、貨幣経済が大きく発達し、貨幣の流通により様々な職種の人々が提供する役務に対する報酬もしくは官吏への俸禄として貨幣(銅銭)が支払われ、かつ商品や役務の消費地にてその代価として貨幣が用いられるようになり、結果的に建康を中心とした都市部での物資流通も活性化したことで商品流通網が構築されていった。ただし、梁以前から問題となっていた銅不足が問題視されており、梁の武帝(蕭衍、464年~549年)は良質な貨幣発行の安定化に努めていたが、523年には突如銅銭を廃止して鋳造しやすい鉄銭を採用したことによって私鋳も行われるようになったことから貨幣価値が下がる事態に陥ってしまい、インフレにより経済が混乱していった。これにより、窮乏した農民が増加して都市部に流入し、深刻な社会不安をもたらしている。
また、当時の梁の外交について特筆すべき点としては、三国時代には呉の首都であるものの一地方都市に過ぎなかった建業は、梁の武帝の時代になると世界を代表する一大都市へと変貌した。それを物語る資料として「梁職貢図」(蕭繹職貢図)があり、これは武帝の第七子蕭繹(後の第四代皇帝である元帝、508年~555年)が梁に朝貢する外国使節を刺史として赴任していた荊州や首都建康にて調査して描いたものとされる。タクラマカン砂漠のホータン国、新疆ウイグル自治区トルファン市に存在した高昌国、アフガニスタン東部にあったエフタル、ササーン朝ペルシア、新疆ウィグル自治区にあったクチャ国、朝鮮半島の百済と高句麗、倭(日本)といった周辺国や周辺少数民族が来貢していることが確認できる。また、梁より2代さかのぼった宋の時期には日本からいわゆる「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」が5世紀に数度遣使入貢したとされる。
そして、華南の地で秦漢以来の中原文化を一貫して貴族が継承しており、貴族中心に六朝時代に花開いた文化を六朝文化と呼ぶ。文学(詩)では東晋末~宋の陶淵明(365年~427年)、同じく東晋末~宋の謝霊運(385年~433年)、『文選』を記した梁の武帝の皇太子である昭明太子(蕭統、501年~531年)、梁末斉初に文学理論書『文心雕龍』を編纂した劉勰(生没年不詳)、同じく文学評論書である『詩品』を記した鍾嶸(469年?~518年?)、美術(絵画)では東晋の顧愷之(344年?~405年?)、書道では東晋の王羲之(303年~361年)・王献之(344年~386年)親子といった文人や芸術家を数多く輩出している。詩や散文における文体の一つとして四六駢儷体が魏・晋の頃に生まれ、六朝や唐にかけて隆盛した。
また、六朝文化は宗教を基層に誕生した経緯もあり、老荘思想・仏教・道教が後漢末から魏晋南北朝にかけての動乱期に従来の中華における精神的根幹であった儒家思想を超越した新たな精神文化の原動力として大いに支持された。
梁の武帝は自ら「三宝の奴(仏教に帰依して仏・法・僧に従順な信徒)」と称し、「菩薩戒弟子皇帝」と呼ばれるほど熱心な仏教徒であり、後に唐代の詩人杜牧(803年~852年)によって詠まれた「江南春」で「南朝四百八十寺」という一句に形容されるようにおびただしい数の仏教寺院が建立された。崇仏の姿勢は個人的な信仰・嗜好のみならず、国制・政体にも大きく関係しており、当時東アジア世界で仏教が急速に伝播していったこともあり、儒教思想に基づいた冊封体制と合わせて、各国との外交に大きな影響を与えていた。
しかし、東魏の権臣高歓の有力な武将であった侯景(503年~552年)が高歓の死後に東魏から出奔すると、梁に降った。ほどなくして、それまで対立関係にあった東魏と梁が講和することになり、これに危機感を覚えた侯景が548年に梁に対して反乱を起こした(侯景の乱)。翌549年には侯景は建康は陥落し、武帝を横死させた。乱は侯景が部下に殺害されたことにより552年に終結したが、結果江南社会を大きく混乱させただけではなく、建康を荒廃させたことで後の南朝の衰退を導くこととなった。
魏晋南北朝時代の学術の動向
儒教の動き
魏晋南北朝時代は儒教の経典とされる四書(『論語』『大学』『中庸』『孟子』)、五経(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)を研究・解釈する学問である経学も数多くの学派に分裂し、学説も多く生まれていた。北朝では 鄭玄(127年~200年)の学派が主流である一方で、南朝では 三国魏の王粛(195年~256年)の学派が主流であった。結果的に唐代に至ると太宗(李世民、598年~649年)は孔穎達(574年~648年)・顔師古(581年~645年)らに命じて『五経正義』を編纂させ、四書五経の官選注釈書となった。最終的に653年の高宗(李治、628年~683年)の時代に完成し、毎年の科挙の経書に関する試験における国定教科書的な位置づけとなった。
魏晋南北朝時代の仏教
仏教の伝来と中国社会への影響
中国への仏教の伝来についての説話はいくつかある。北魏の歴史を記した『魏書』「釈老志」において前漢の哀帝(紀元前25~紀元前1年)の治世に天山山脈北部のイリ地方(現在の新疆ウイグル自治区北部のイリ・カザフ自治州)に王国を築いていた大月氏国の使者である伊存が『浮屠教』という教典をもたらし、五経博士の下に設置された官職である博士弟子の景蘆に口伝したというのが仏教伝来についての最初の記述とされている。ただし、仏教そのものの記述については、前漢の武帝(紀元前156年~紀元前87年)の治世である元狩年間(前122年~前117年)に将軍の霍去病(紀元前140年~紀元前117年)が匈奴の討伐で5万の民と共に降伏してきた匈奴の昆邪王より「金人」を獲得して甘泉宮で祀ったといった記事や、同じく武帝の命で大月氏国に派遣された張騫(?~紀元前114年)が現地で「浮屠の教」の話を聞いたという記事が見られる。この他、後漢の明帝(紀元28年~紀元75年)が夢の中で「金人」を見て、求法の使節を西方に派遣し、迦摂摩騰と竺法蘭の二僧が来朝して十二章経をもたらし、洛陽の郊外に白馬寺を創建したとされる話(ただし、明帝のいわゆる「感夢求法説」の逸話は晋の哀宏〔328年~379年〕の『後漢紀』にさかのぼることができるとされ、この時期に作られたものではないかとされる)や、明帝の異母弟であった楚王劉英(?~紀元71年)は『後漢書』によると最初の敬虔な仏教徒だったいう逸話が残っている。後漢の第11代皇帝であった桓帝(132年~168年)は中国の皇帝としては最初の仏教徒になったと言われている。いずれにせよ、シルクロード経由で仏教が西方よりもたらされるような土壌がすでに存在していたことを示している。また、後漢においては仏陀は道教で最高位に位置するとされた黄帝とともに祀られ、不老長寿を霊力がある存在とみなされ、現世利益のための信仰の対象として後漢の社会で受容されていった。
仏教は紀元1世紀にインドから伝来したとされ、それが社会全般に4世紀後半から広がっていった。とりわけ、五胡十六国時代には従来の伝統的な儒教思想に縛られることもなく、自由な哲学思想が発達しやすい土壌で仏教が発達した。魏の時代には中国人仏教界で西域出身者が大半を占める中で朱士行(生没年不詳)が中国人として初めて出家僧になり、『八千頌般若経(小品;しょうぼん、もしくは小品般若経とも呼ばれる)』に不完全な個所を見つけたことから、求法のために新疆ウィグル自治区にあったとされる于闐(ホータン国)に到達し、『二万五千頌般若経』の原典を得ることができた。朝廷の保護を受けていった中で、同時期には現在の新疆ウィグル自治区クチャ市にあった亀茲国出身の仏図澄(ブッタチンガ、232年~349年)が中国に来訪し洛陽で布教を行い、同じく亀茲国から鳩摩羅什(クマラジーヴァ、344年~413年)も訪れて布教や仏典漢訳を行った。南朝梁には真諦(パラマールタ、499年~569年)が西インドのウッジャイン国より来朝し、梁の武帝に招聘されて建康に至るが、侯景の乱などの動乱により建康が壊滅していたことから梁末から陳の戦乱を避けて呉郡(現在の江蘇省と浙江省に跨っていた地域)にて翻訳事業を開始した。また、東晋の僧法顕(337年~422年)はグプタ朝のインドに渡り、仏典を中国に持ち帰った。法顕の旅行記は『仏国記』として著された他、のちに法顕が翻訳した『大般涅槃経』を元に中国では涅槃宗設立の礎となった。
音韻学の発達
漢代には儒教の教典である経書の難解な語を解釈する学問(具体的には経書の注釈書の著述と経書に記された古代中国語の辞書編纂)として訓詁学と、前漢中期から後期に発見されるようになった古文字の経書を研究する学問である文字学が発達し、さらに仏教の伝来により魏晋南北朝時代には悉曇学が中国にもたらされ、音韻学として中国の自言語研究に大きな影響を与えた。
悉曇学とはサンスクリット文字(梵字)を研究対象とした学問であり、中国において仏典の漢訳事業が成立とともに発展していったものである。紀元1世紀に漢訳が開始し、その実績が出てきたのは2~3世紀になってからとされ、当初は西域から訪れた外国人が訳業に従事していたようである。仏典の漢訳にあたり、他言語と中国語とを対比していく中でその違いが浮き彫りされ、中国のことば特有の字の構成(声母と韻母)や声調が意識されていくようになった。インドの文字は元来表音文字であったために文法学者のパーニニ(紀元前520年~紀元前460年)以来、伝統的に統一された表記という言語環境が整っていたが、仏典を原文から理解するにあたりインドの音をどのように理解し、多数ある漢字の中からどれを選ぶかに焦点を当てて分析・整理していった学問が悉曇学であった。事実、『説文解字』のような字典が存在し、漢字の字形として魏の鍾繇(151年~230年)や王羲之といった書家の字体が手本とされることはあっても、発音については後述の反切が用いられたのみで、音韻学については独自での発展や発達は見られなかった。
魏では李登(生没年不詳)が『声類』を記し、晋では呂静(生没年不詳)が『韻集』を記したとされ、それらは現在は散逸しているものの漢字を韻ごとに分類した字書であったとされている。従来、漢字はその読みについて現代のピンインのように表音文字が存在せず、それを解決するために『説文解字』で示されているような読若のように類似音で音を示す方法や、もしくは直音と呼ばれる同音の文字で示す方法があったが、前者は必ずしも正確な音を表示できるわけではない、後者は同音字での表記が必ずしも他の文字で保証されるわけではない、といった問題を抱えていた。この他、「急言(急気言)」「緩言(緩気言)」といった読み方を説明する方法も後漢末から三国時代に考案されたが、短期間用いられたのみでその後はすたれていった。
同じく後漢には反切という画期的な音の表記方法が考案される。漢字2語を用いて、読み方の分からない漢字の発音を表示する方法である。正確な起源は不明であるが、三国呉の孫炎(生没年不詳)による『爾雅音義』が最初であるとされ、ほぼ同時期の服虔(生没年不詳)または応劭(?~204年)による『漢書』の注釈でも半切は用いていると言われている。また、六朝の時代に至ると、梁の沈約により中国の言語に声調があることを気づいて各音を平声・上声・去声・入声と分類し、『四声譜』を記したとされている。