秦の始皇帝の文字統一事業

紀元前221年に中国全土を平定して中国を統一した秦の始皇帝(紀元前259年~210年)は政治の中央集権化を進める中で郡県制を敷くとともに、各地でばらばらの基準で定められた度量衡・馬車の幅軸(車軌)・位取記数法を統一し、交通網や通貨の整備等を進めた。中でも文字統一が重要な事業の一つとされている。漢代の許慎が編纂した『説文解字』によれば、秦では八体と呼ばれる字体が8種類(大篆・小篆・刻符・虫書・摹印・署書・殳書・隷書)存在していたとされ、この内小篆を基準とした書体への統一化を宰相の李斯(?~紀元前208年)が秦国内で進め、後に皇帝が使用する文字を「篆書」とし、標準書体と定めた。これに対して臣下が用いる文字を隷書として秦が征服した地域でも公用文字として使用することを定め、各地での固有書体の使用を廃止している。戦国時代は漢字の使用場面や用途が拡大し、様々な事柄が文字に記録されていった。同時に漢字の地方化も進んでいき、地方ごとで独自の発展を遂げていった。結果として、漢字の字形が地方によって異なっていただけではなく、漢字の用字法もそれぞれで異なっていたことが近年の研究で明らかになっている。

秦に征服される以前の楚では楚文字(楚国文字)と呼ばれる独自に発達した文字を使用されていたとされ、秦の中国統一による文字統一政策で次第に使われなくなり消滅したものと推測されている。また、1950年以降に中国各地で五里牌竹簡(湖南省長沙市・長沙楚墓)・望山竹簡(湖北省江陵県・江陵望山楚墓)・信陽竹簡(中国河南省信陽市・河南信陽長台関楚墓)・馬王堆帛書(湖南省長沙市・馬王堆漢墓)といった竹簡・木簡・帛書と呼ばれる文字資料が発掘され、戦国期から秦に移る過程でも中国各地で独自の文字を使用していたことが窺い知れる。

後世に始皇帝の悪法として伝えられる焚書坑儒は専制政治のために行った思想統制であることは間違いないが、近年発掘された秦漢時代の墳墓から儒家関連の文章が大量の木簡・竹簡・帛書で発見されていることから焚書坑儒はそこまで徹底していたものでもなく、儒家による誇張も若干含んでいたのではと近年の研究では指摘されており、思想統制の一方で旧書体を廃止して篆書体への統一を図るという側面も持っていた。これが一般的に言われる始皇帝の「書同文」の政策であり、中国各地での行政文書処理の効率化や通信網整備に着目したという意味では文字に特化した政策ではあったものの、国家主導の言語政策としては中国史上初といえる。

皇帝による中央集権国家となった秦は郡と県によって中国各地を統治する郡県制を導入し、各地の郡・県に派遣した役人を通じて統治を行っていった。郡と県の長官・副官は皆中央からやってきた官吏であり、官人用語に相当する何らかの共通語で互いに意思疎通を図っていたものと思われる。しかし、現地には土着の方言があり、それを中央からの管理は理解することができないために、最低でも文字が書ける程度の土着の顔役が「吏」として登用されて徴税・賦役・戸口調査などの実務を官民の間に立って行っていた。漢の高祖・劉邦(紀元前247年~紀元前195年)は故郷の沛県(浙江省徐州市)の東にある泗水で亭長(警察分署長)についていた他、劉邦に仕えた蕭何(紀元前257年~紀元前193年)は沛県の役人で、同じく蕭何の部下にあたる曹参(?~紀元前190年)は刑務所の属吏、夏侯嬰(?~紀元前172年)は県の厩舎係兼御者であったとされる。彼らは「刀筆の吏」すなわち文書仕事に従事していた小官吏であり、官民の通訳の役割も果たしていた。