中国語は現地でどう呼ばれているか?

中国大陸・台湾・シンガポールで公用語として話されている言語は、一般的には日本語では「中国語」と呼ばれ、英語で「Chinese」「Standard Chinese」「Mandarin」「Mandarin Chinese」という語が当てられる。では、当の中国語話者は「中国語」では一体どのように呼ぶのであろうか。一般的に「漢語」「普通語」「中文」「中国話」「國語」「華語」「台湾華語」「台湾国語」「官話」といった語が用いられるが、微妙にニュアンスが異なる。

漢語(汉语)

Hàn yǔ
漢民族の使用する言語を示す。そのため、漢民族の一部が話す広東語や上海語と言った方言も広義には漢語になるが、中国大陸では普通は漢語は標準中国語を指す。本来は文字通り「漢民族の言語」を意味するが、中国政府が対外的に使用する中国語の呼称である。定義上は下位区分として「普通話」と「方言」が存在するが、漢語は普通話と同義である。両者とも実質的に中国大陸では公用語や共通語というニュアンスなので、中国大陸ではこれも「中国語」そのものを意味する。ただし、台湾では漢語の名称は通じるものの、一般的な「中国語」の名称ではない。同様にシンガポールでも中国語話者には通じるが、現地では「華語」と呼ぶのが通常である。

普通話(普通话)

Pǔ tōng huà
中華人民共和国成立後に1955年に制定された「標準語」。漢語同様に、中国大陸では中国語そのものを指すが、より具体的には「(中国大陸の中国語話者に)広く通じる言語」というような意味であり、北方方言を基礎に北京音を基準とし、近代中国文学に現れた文法に従っている。書字は横書きであり、漢字には規範的な文字として簡体字を、発音表記にはローマ字とピンインを用いる。これも台湾やシンガポールでは単語として通じるが、一般的には標準中国語を指す名称としてほとんど使用することはない。

中文

Zhōng wén
中国大陸では「中国語言文学」の略称であり、「中文書」は中国語で書かれた書物というニュアンスになる(一方で「漢語書」は中国語のテキストや参考書といった意味になる)。厳密に言えば、他国の言語と相対して中国の言語ということに重きを置いた表現である。本来は書き言葉としての中国語を指すが、現実には話し言葉を含む概念として、中国・香港・台湾・シンガポールで広く通用する標準中国語を示す語である。また、国連の公用語としての中国語、海外メディアが中国語で情報発信する際にも「中文」という呼称を使用する。

中国話(中国话)

Zhōng guó huà
「中国語」のくだけた呼び方。「中文」同様の用法として中国語話者には認知されており、中国大陸でも台湾でもシンガポールでもカジュアルな呼び方として使用される。

國語(国语)

Guó yǔ
主に中国南方地域や台湾での「中国語」の呼び方。北京などの華北地域では一般的な名称ではないが、一応は単語として通じる。より具体的に言えば、中華民国において制定された標準語を指し、中国共産党に負けた国民党が台湾島に敗退した1949年より台湾および中華民国が実効支配した地域(澎湖諸島や金門島など)において継続使用された標準中国語の呼称である。明清時代の官僚の言葉である北京官話をベースとして整備されたために普通話と重複する部分が多い。ただし、普通話と比較すると、書字は縦書き、漢字には繁体字(正体字)、注音符号で発音表記する、といった違いがある。21世紀に入り、近年では台湾では政治的アイデンティティの変化により、華語と呼び変えられることも増えている。
また、中華民国はローマ字表記としてこれまでに一貫してウェード式(ジャイルズ・ウェード式)を使用してきたが、2009年に大陸式のピンイン(漢語拼音)を採用・導入することとなった。ただし、地名(台北=Taipei、高雄=Kao Hsiung)や中国語由来でない地名(基隆=Kee lung)など国際的に定着しているものについては従来のウェード式表記となっている。

華語(华语)

Huá yǔ
シンガポールを含めて、中国大陸や台湾以外の地域(北米や東南アジアなど)で生活する漢民族系の人々を「華人」と呼び、彼らが使う言語を一般的に「華語」と呼ぶ。中国籍を離れた華人が中華人民共和国と一線を画するために用いることが多い。実質的には「漢語」「普通話」「中文」「国語」とほとんど変わらない。または、特定の国での「中国語」という表現を避けるために用いられることもある。シンガポールやマレーシアでは中国大陸式の簡体字を使用し、北米の台湾人・香港人コミュニティでは繁体字を使用することが多い。また、東南アジア系の華人(華僑)には福建系もしくは広東系が多いことから、ネイティブで閩語や広東語は話せるが、中国語は話せないというケースもある。

台灣華語

Tái wàn huá yǔ
台湾独特の発音を含んだ台湾で話される中国語をざっくりと示すのに用いられるが、台湾現地ではあまり一般的な名称ではない。ただし、単語としては中国大陸でも台湾でも通じる。

台灣国語

Tái wàn guó yǔ
巻舌音を含まない独特の発音、台湾語や日本語由来の単語、台湾独特の豊富な語気助詞、特殊な文法構造を持つ台湾で独自に発達した中国語を指す。この他、特徴として中国大陸ですでに使われなくなった単語や発音が残存している。基本的には、全世界で中国語の基軸として広く採用されている北京方言と対比した、台湾人が日常的に用いる中国語を指すことが多い。1949年に国共内戦に敗れた国民党政権が台湾に遷移してから標準中国語を台湾唯一の標準語としたが、台湾の歴史の成立過程でそれまでに吸収してきた原住民の言語・スペイン語・オランダ語・日本語・台湾語・客家語由来の単語も取り入れながら、台湾のマジョリティである本省人の話す台湾語の発音に基づいて、台湾人の発音しやすい言語として1950年代から自然形成されていった。一部の単語は中国大陸の標準中国語話者には分からないケースは若干あるにせよ、文法構造や基本語彙が同じであるために、台湾国語は北京方言から見て「台湾なまり」程度の違いである。台湾独自の中国語だからといって中国大陸で全く通じないということはなく、むしろ台湾ドラマなどの影響で中国大陸の若年層ではあえて台湾国語の影響で台湾なまりで話すこともあるという。

官話(官话)

Guān huà
明清の時代に話されていた中国語すなわち北京方言が当時の中国大陸での共通語であり、各地に派遣される地方行政官および北京の宮廷に仕える地方出身の官吏にとって必須の言語であった。これにより官吏が話す言語、すなわち官話という単語が誕生した。官話という名称自体は明代に生まれたものであり、中国大陸の官吏が一定の共通語をもって意思疎通を図るという事実を16世紀に東アジアに布教目的で来航したイエズス会の宣教師によって発見された。そして、彼らはその共通語を「Mandarin」と呼び、官吏を指すその語から「官話」という名称に翻訳したとされる。一方で、「官話」を音写した語として「Quonhua」と言った語がイタリア人イエズス会士マテオ・リッチ(1552年~1610年)の記録などにも確認することができ、マテオ・リッチ以降のイエズス会の記録でも同音を音写した語が見られる。
元々は、官話=北京方言≒標準中国語の起源は元代にさかのぼり、北京は元王朝の都・大都として栄え、13~14世紀に大都を中心に話された北京方言を起源としている。1368年に元が明によってモンゴル高原に駆逐されると、明の太祖洪武帝(朱元璋、1328年~1398年)が当初南京に国都を構えたが、洪武帝の子である朱棣(1360年~1424年)が甥の建文帝(朱允炆、1377年~1402年?)から王位簒奪し永楽帝として皇位につくと、国都を北京に遷す。この際に南京より約40万人の人民も引き連れたことから、北京音に南京音が混ざるようになり、かつ清朝中期頃まで実質的に南京音による南京官話を指して官界では公用語すなわち官話を意味していた。後に清代の雍正帝(1678年~1735年)の時代より北京官話の重要性が認識されるようになり、華南出身の官吏が朝廷で官話を使用できるように官立・私立の北京方言専門学習塾が設立されるなどの取り組みがあり、アヘン戦争以降の清朝末期には北京の官界の言語および欧米列強とのコミュニケーション言語は北京方言へと移行していった。
官話という名称は、現在では北京方言を代表とした北方方言群を「北京官話」「東北官話」「江淮官話」「冀魯官話」「膠遼官話」「西北官話」を官話方言と呼ぶ場合に使われる。ただし、「北京官話」や「東北官話」はその成立過程における歴史的背景から「江淮官話」といった南方官話の発音の影響を受けてきたために、厳密な北方方言の区分の定義を設けるのが困難であり、1980年以降は北方方言群をまとめて官話と総称と呼ぶとともに、中国各地の方言に相対する概念語として扱われている。
日本では官話という名称は大正時代頃(20世紀初頭)まで用いられていたが、次第に使われなくなっていった。そのかわりにインド仏教由来の「支那語」という名称が終戦まで使用され、戦後は「中国語」という名称が一般的になって、「支那語」はほとんど使われなくなり、「支那」の名称が昭和50年代頃までごくわずかに狭い範囲で用いられただけである)。

英語や他の言語ではどう呼ぶか

英語では中国語を指して、「Chinese」「Standard Chinese」「Mandarin」「Mandarin Chinese」と言った呼び方があり、フランス語・スペイン語・ポルトガル語・ドイツ語でも同じ言語系統であるためにほぼほぼ「Chinese」と同じ呼び方である。

Chinese

全世界で「中国語」と示すのに広く用いられる語。一般的には標準中国語を示す語であるが、広義では中国で話される様々な言語「中国の言語」として標準中国語を含めて方言やチベット語・ウイグル語・モンゴル語・満洲語・チワン語なども含むとも解釈可能である。名詞型である「China」は紀元前221年に中原を統一した秦の国名がインドに伝わり、「チーナ/China(もしくはチーナ・スターナ/China staana)」という名称が定着したと明末清初にキリスト教の中国大陸で布教活動を行ったイタリア人のイエズス会修道士マルティノ・マルティニ(1614年~1661年)は指摘している。また、インドから仏教が隋代に伝わった際に、逆輸入するような形で「チーナ(もしくはチーナ・スターナ)」が漢訳された際に「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」というように漢字名称が与えられている。

Mandarin

明代と清代を通じて中国大陸で布教活動を行っていた宣教師が、現地で「方言」以外に役人・官僚が使用している公用語すなわち「官話」を指して呼んだことに由来する。「マンダリン(Mandarin)」の語源として清王朝の役人の大半が満洲人によって占められていたために「満大人(満州人の士大夫)」が訛ったもの、もしくは「役人が着用していた服の色がマンダリンオレンジの色(mandarin orange)をしていたから」といった俗説があるが、正しくは元々はポルトガル語で命令者や役人を意味する「mandarin(現代ポルトガル語ではmandarim)」に由来している。
語源をたどるとサンスクリット語の「mantri」にあるとされ、「考え、語る人」の意味である。このサンスクリット語に由来する語がインド・バングラデシュ・ネパール・カンボジア・タイ・ブルネイ・マレーシアでは下級官吏から大臣に至るまで広く役人を指す言葉として現在でも使われている。15世紀~16世紀にマレー半島で栄えたイスラム系マレー都市国家のマラッカ王国で建国の功臣の子孫にあたる貴族階級を「menteri」と呼んでいたのを大航海時代を機に東南アジアに進出していたポルトガル人が自国語に取り入れたのがヨーロッパの言語として取り入れたのが最初である。清の建国は1636年であり、「マンダリン」の語はそれ以前の文献で散見されるため、清=満州人と関係のある語とは言えない。マンダリンオレンジとは俗説とは真逆で清朝の役人の服の色に由来している。また、「mantri」と同じ語源を持つ語が「maṇḍala(マンダラ、曼荼羅)」であるともされ、「mandala」自体には「manda」は「円、中心に集まる」と、「la」は所属や所有を示す接尾語の合成語である。
「Mandarin」の語がヨーロッパ社会で一般的になる前は「Loutea」もしくは「Louthia」の語が用いられたともされる。明に捕らえられ中国で過ごしたポルトガル人傭兵のガレオテ・ペレイラ(1510年頃?~?)が記した『チナ幽囚記』、ポルトガルのドミニコ会士ガスパール・ダ・クルス(1520年~1570年)の『中国誌』、スペインのアウグスチノ会修道士フアン・ゴンサーレス・デ・メンドーサ(1545年~1618年)の『シナ大王国誌』などでその語が散見され、マテオ・リッチが記した『中国キリスト教布教史』には「Lautie」と「Lauye」の両方の語が見られる。元々は「Loutea」「Loythia」は「老爺」から由来しており、発音自体は廈門語の「ló-tia」や泉州語の「lāu-tia」から来たものとされている。

Китайски(キタイスキー)

契丹人を描いた宋代の絵画

ロシア語では標準中国語を指して「Китайски(キタイスキー)」と呼び同じく、東スラブ語群のウクライナ語では「Китайський」、ベラルーシ語では「Кітайскі」と呼ぶ。南スラブ語群西グループのスロベニア語では「Kitajski」、同じく東グループのブルガリア語では「Китайски」と呼ぶ。

キタイとは元々は中国人によって「契丹人」と呼ばれていたキタイ人を指していた。キタイ人は南北朝時代に華北に北魏・北斉・北周を建国した鮮卑人の末裔にあたり、モンゴル・中国東北部・極東ロシアに4世紀頃から居住していた。さらに鮮卑について言及すると、古代に内モンゴルから中国東北部の西部にいた東胡の子孫にあたるのが鮮卑人とされる。漢代初めに匈奴の冒頓単于によって東胡が滅ぼされ、その生き残りの内で現在の内モンゴル周辺に定住したものが烏桓、鮮卑山(大興安嶺南部または遼河流域と比定)に逃げたのが鮮卑人である。

唐代末期に統率力に優れた首領である耶律阿保機(872年~926年)に率いられたキタイ人は中国北部・モンゴル・シベリアの広大な領土を支配した遼王朝(916年〜1125年)を建国し、926年には現在の中国東北部および北朝鮮の一部にあった渤海国を滅ぼしただけでなく、後晋から北京などを含む燕雲十六州の割譲を受ける。加えて、中国北西部のチベット人王朝である西夏を服属させるまでに至る。1004年には宋と和平条約のひとつとして澶淵の盟を結んで国境線の維持および不戦を定めたが、対等な盟約ではなく遼が優位に立つという条件の下、宋からは絹や銀など毎年一定の貢物が遼に送るものとなっていた。

強大な帝国を北東アジアに築いたものの、結果的に遼は繁栄の中で貴族の豪奢が進んだことと軍備の弱体化により1125年に中国東北部で新興勢力の女真族(女直族、のちの満州族の祖先にあたる)の完顔阿骨打(1068年~1123年)が打ち立てた金によって滅ぼされる。ただし、遼の皇族のひとりであった耶律大石(1087年~1143年)が西走して現在のトルキスタンに西遼(カラ・キタイ)を建国し、1218年にモンゴル軍の遠征で滅亡するまでキタイ人の国として中央アジアに栄えることになる。

「キタイ」という語の本来の定義はキタイ人およびキタイ人の定住地域を指すものであったが、それが中央アジア以西ではキタイ人の地域=中国東北部を指すだけではなく、中国そのものを指すように意味が転化していった。金が遼に取って代わり華北を支配した後でもキタイという名称は使われ続け、それはカタイ・ヒタイ・カタ・ハタといった語も派生した。モンゴル帝国崩壊後はマルコ・ポーロのように有力な中国な情報がヨーロッパにもたらされることが途絶えた結果、キタイの語が独り歩きを続け、例えばメルカトル図法で有名なオランダの地理学者ゲラルドゥス・メルカトル(1512年~1594年)はシナ(もしくはマンジ)と併存する地域・国家としてキタイが存在するものと誤解し、両者は別々のものという誤った認識が後代の学者にも引き継がれた。唯一、中国に来訪したイエズス会のマテオ・リッチ(1552年~1610年)の調査により、自分たちの訪れた地域「シナ」がマルコ・ポーロの言うところの「キタイ」と同一であることが証明されるものの、シナ・カタイについての議論はしばらく続き、1703年になりパリで発行されたフランスの地理学者ニコラ・デ・フェール(1646年~1720年)による地図で黄河沿岸部をカタイ、江南地方をマンジと記したことで、「シナ」と併存する架空の「キタイ」が地図に存在する問題は一応は解決された。

モンゴルおよび中央アジアのテュルク系諸語でも「キタイ」を用いた中国語に対する呼称が残っており、モンゴル語では「Хятад(ヒャタッド)」、カザフ語では「Қытай(キターイ)」、キルギス語では「Кытайча(キタイーサ)」、ウズベク語では「Xitoy(ヒトーイ)」と呼ばれる。また、香港を拠点とした航空会社にキャセイパシフィックがあるが、このキャセイも「契丹」を起源とする英語の単語「Cathay」であり、マルコ・ポーロ(1254年?~1324年)が中国を指すのに用いていたことに由来する。