華中・華南の異民族世界
『礼記』「王制」には以下のような一文がある。
「中国、夷、蛮、戎、狄、皆有安居、和味、宜服、利用、備器、五方之民、言語不通、嗜欲不同。達其志、通其欲、東方曰寄、南方曰象、西方曰狄鞮、北方曰譯。」
(中国・夷・蛮・戎・狄、皆安居、和味・宜服・利用・備器あり。五方の民、言語通ぜず、嗜欲同じからず。其の志を達し、其の欲を通ずるに、東方は寄と曰ひ、南方は象と曰ひ、西方は狄鞮と曰ひ、北方は訳と曰ふ)
中華・東夷・南蛮・西戎・北狄の民はそれぞれに自分が安住できる場所、美味だと思っている食べ物、自分にあっていると思っている衣服、便利だと思っている道具、良いと思っている器物がある。それぞれの民族に独自の言葉があるためにお互いに意思疎通ができず、なおかつ嗜好も異なる。自分の意思を伝え、欲することを通すことを、東方では「寄」、南方では「象」、西方では「狄鞮」、北方では「訳」と呼ぶのである。
中華を中心とした場合に、四方にいる異民族の話す言葉が中華に住む漢民族と異なる認識が秦漢の時代にすでに持たれおり、なおかつ中原の言語が必ずしも全世界共通の普遍的なものでないという自覚があったことが分かる。加えて、同じ民族同士であっても地方ごとに話す言葉が全く異なるという認識があったことも当時の資料からは知ることができる。
中国には古来より華夷秩序と呼ばれる独特の国際秩序と世界観があった。それは中原を頂点とした中国の領域は世界の中心(中華)であり文明化された土地と位置づけられ、反対に中華の東西南北の周辺地域は未開の蛮族が住む土地とする考え方である。それは時代を経るにつれ、世界の中心と見なされた「天子」である皇帝が統治する中国の文明と文化が世界で最上位にあるとされた。皇帝の徳が及んでいない地域は野蛮で教化されていない禽獣の地として扱い、中心から遠ざかれば遠ざかるほど非文明の度合いが強くなっていくという思想が生まれた。その解釈から周辺の民族や諸外国は東夷・西戎・南蛮・北狄と呼ばれた。また、それら中華の文明教化が及んでいない地域は「化外の地」とも呼ばれた。
そこには当然現代のような国際秩序はせず、諸外国との外交も対等の関係となることはなく、貿易についても周囲の異民族が中華の徳を慕って貢物を進上し、それに対して皇帝が返礼品を下賜する「朝貢」が中華世界における基本的な外交であった。隋の煬帝(569年~618年)が聖徳太子(574年~622年)から送られた国書にあった「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」の一文に激怒したとされる逸話からも分かるように、日本も近代に至るまで伝統的に野蛮な東夷と見做された経緯があり、1840年に勃発したアヘン戦争も当初外交を求めたイギリスに対して夷狄として三跪九叩頭のような過度な臣下の礼を求めたことが遠因のひとつとされている。ただし、中には国境紛争収拾のために1689年に清がロシアと対等な関係でネルチンスク条約を締結したり、1004年に宋が弟で遼が兄とした不平等な盟約として知られる澶淵の盟が結ばれたというような例外もある。

殷周の時代から淮河と洛水の南の水に恵まれた地域で古くから米作を行っていた夷や蛮と呼ばれた先住民族が定住していたとされ、彼らは総称として越族=百越と呼ばれていた。淮夷・徐夷・東夷とよばれた現在の江蘇省・安徽省北部に住む原住民が紀元前8世紀に魯に討伐されて漢化し、荊蛮と呼ばれた湖南省以南の地域には紀元前11世紀頃には楚が誕生した。
南蛮と称された地域については紀元前585年に呉(句呉)が誕生し、それに対抗する形で紀元前600年頃に越が建国される。越の都は現在の浙江省紹興市にあったとされ、この地では約6000年前から稲作が行われており、中国神話に見られる禹(夏王朝の始祖)の原形とみられる龍神を治水の神として信仰していたとされる。紀元前475年に越は呉に勝ったものの、紀元前300年頃に楚に討たれ、最終的に秦の平定されることになる。
殷周時代の異民族観
殷代の異民族観
殷代の甲骨文には羌方(西方もしくは北西方)・犬方(北方から西北)・鬼方(西方)・土方(北方)・人方(東方)・夷方(東方)・羿方(東方)・虎方(北方)・馬方(北方)・羊方(西方)・鹿方(森林・狩猟文化圏?)といった異民族を指す語が確認され、他民族との比定が難しいものとして隹方・工方・井方・立方・索方・帚方といったものも挙げられている。後者については、地名や国名、もしくは一時的に同盟を結んでいる複数の軍事集団による集合体を指すような場合もあったようである。殷末~周初になると、崇方・密方・黎方・盧方・徐方といった語も見られるようになる。いずれにせよ、殷王権から見た対外的な外部の政治単位が「方」であり、殷での信仰対象とする神の意志に従って討つべき宗教的敵対勢力は「方」として包括されていた。
これら異民族の中で特筆すべきものは「犬方」や「鬼方」であり、殷に対する敵対勢力であることに変わりはないが、ここでの「犬」とは非文明や野蛮を示すものとされ(犬のトーテム信仰があった可能性もある)、「鬼」はその文字通り殷とは異なる宗教を持った特定の敵対集団を指しているとされる(加えて「鬼方」は特定地域の異民族を神話化したでもあるというのが現在の学説では主流)。
また、「羌方」とは現在の陝西省・甘粛省に存在していた牧羊と農耕を営む民族集団であり、しばしば殷はこれを攻撃対象としていた。捕虜として捕らえられた羌人は奴隷として使役させられた他、殷の祖先神の祭事で生贄として人身御供となっていたことが甲骨文に刻まれた記述から判明している。武丁から紂王まで約200年間で捕虜として処分された外敵部族の中では羌族が最も多かったと推測される(ただし、この羌族だけではなく、他の異民族もまとめて「羌」と呼んでいた可能性もある)。後に羌族は婚姻などを通じて周と関係性を深めていき、周の武王が殷の紂王を討つに至っては最も功績の大きかったと『書経』では記している。周により斉に封じられた姜呂尚(いわゆる太公望)の一族も羌族にルーツを持つものであったとされる。後世になると、羌族は中原の歴代王朝に追われて次第に中国北西部や南西部に移っていき、チャン族・チベット族・ヌー族・イ族・ナシ族・リス族といった少数民族に分岐していったとされる。
殷代には後世の中国に存在していた中華思想のような、世界の中心にいる文明化された中華世界にいる自民族と、周辺世界に住む文明化されていない野蛮な民族という世界観ではなかったようで、あくまで「方」で定義されていた異民族は近隣で共存もしくは敵対する他民族集団程度の認識にすぎなかったようである。「方」の字は方向を示すとともに、その方向の地域、さらにはその地方の中心的な自然神を示していたとされ、それは一定の土地と神が一体のものとして捉えられていた。とはいえ、元々「方」は最初からある方向を代表する神と考えられていたわけではない。西方や南方の風である長などは同時にある特定の一国族名でもあった。つまり、本来は限られた国や部族によって祭祀されていた神であり、しかもそれらの国や族は時として殷に対峙するものでもあったので、自然神と同じように殷の勢力拡大が行われる過程で、殷の祭祀に取り込まれていった。さらに、ある方向の神の代表になっていることを考えると、その神を元々崇拝していた国や族はやはりその地方の有力な国族であることが分かる。
殷代にはまだ「民族」というような近代的な抽象概念は存在せず、その代わりにあったのは「殷が祀る最高神(上帝)の支配圏か否か」や「殷の最高神が設けた秩序に属するか否か」が一種の彼我の判断基準で、異民族とは文化的・血統的に異なるかではなく、すなわち宗教的にも政治的にも外部に置かれる存在であった。「方」は敵国を意味する語として用いられているが、本来は「方角」の「方」ではなく、他部族の「神」を指す語であった。この点から考えると、周は元々は殷の征伐対象となる存在ではあったものの、後に周の歴代首長は殷より西伯という爵位を授けられることで宗教的には外部的存在にありながらも、政治的には服属諸侯として殷の勢力内部に取り込まれていったとされる。事実、武丁以降で帝乙(紂王の父)・帝辛(紂王)の時期に「婦周」という語が甲骨文に確認され、殷と通婚が進んで殷王室の親藩とも言える一定の地位を築いていたことが推測され、同じ最高神の観念を周が共有するようになっていった可能性もある。それを示唆するものとして、中国陝西省宝鶏市で発見された周原甲骨文には帝乙の宗廟にて周の文王ないしは武王が殷の始祖である湯王を祀ったという一文があり、周王が殷王室の一員として祭祀を執り行ったことから、そこには周には殷人としてのアイデンティティがあったのではないかとの指摘もある。
後に「夷・戎・狄・蛮」と分類されるような周辺民族区分の定義はまだこの頃には萌芽しておらず、「夷」以外は用例が甲骨文・青銅器ともに用例が確認されていない。唯一、「夷」の字だけが用いられていたものの、それはあくまで東方の一異民族に用いられる語に過ぎず、「夷方」という呼称があるに留まっていた。「夷」とともに非文明化的であり野蛮なさまを示す「蛮夷」で用いられるような「蛮」に至っては少なくとも甲骨文では用例が確認されず、殷代にはまだこの字が発明されていなかった可能性は高い。同様に「戎」と「狄」も殷代での甲骨文からは使用例が見つかっていない。
後の中華思想=華夷秩序のような体系化された思想は殷代にはなかったが、王都であった「大邑商」を中心とした世界観が存在していた。中華思想の完成形とは言えないが、上述のように「自分たちの信仰する最高神を共有しているかどうか」がその前段階にあったものであるといえる。殷の時点では文化的な優劣で周辺勢力を判別していたのではなく、軍事的・占卜的な対象として見ているのに留まっていた。周代以降の世界を道徳的に階層化する思想や礼による同化理論はなく、後代の王朝と比べて神権中心的国家という点で異質であった。
周代の異民族観
周の武王が殷を滅ぼして王朝を中原に創始すると、それは単なる王朝交代ではなく、神権政治から「道徳的」世界秩序への転換が始まった。殷では上帝を最高神とし、王家祖先が政治を左右し、王は祖先と直接交信でき、なおかつ祖先祭祀のできる唯一の存在と位置付けられた。しかし、この宗教的秩序外にあるのが「方」に代表される周辺異民族であり、捕虜となった異民族は祭祀での供犠対象となりうる宗教的他者であった。
一方の周では上帝の存在を「天」と再編し、かつ天とは道徳的原理であり、徳がある者が天命により権力の正当性を与えられると解釈するようになっていった。つまり、王権の正当性が血統から徳に移行したということになる。これがいわゆる天命思想の原初とも言える姿であった。加えて、それまでの宗族制王権から封建制に移行したという政治制度の転換点もあった。ここにおいて周を中心とした場所すなわち「中原」が設定され、中原を中心に据えた天下=四方世界が誕生した。「方」が宗教的他者という区分であったことに対して、ここで初めて東西南北で他民族を方位別抽象化するようになり、空間の秩序化・天下の構造化が進んでいった。これは文明中心思想に繋がり、中原の天子→その周辺にいる諸侯→さらにその周辺の未開世界にいる四夷=蛮族、というような同心円状に広がる世界観が生まれた。ただ、周初の時点ではまだ強烈な民族差別意識ではなく、周の創業当初は三監の乱を経てから淮夷や戎との戦争が多かったことから完全な平和主義ではなかった。それは次第に四方の異民族は中原文明の道徳秩序に組み込むべき教化可能な存在へと変化していった。
以後、周の王権が次第に弱体化していくと、各地の諸侯が台頭していくとともに、華夷秩序も大きく変貌していった。中華と夷狄の別を理論化した文献で最古のものとされるのは『春秋』であるとされ(中でもその注釈書の『春秋公羊伝』の理論が具体的である)、華夷の判断基準として地理的区別・礼制による区別・道徳的秩序による区別・教化の可否を挙げており、人種や血統に頼らずに礼を実践しているかどうかで華と夷を区別する原理を説いている。これは「華=文明的、夷=非文明的」の構図が周初の地理的区分から、春秋時代に文化的・制度的基準へ転換したことを意味している。ここでいう礼とは宗廟祭祀・冠婚葬祭・会盟儀礼・朝聘制度・爵位秩序・宗法秩序を指し、文明制度への参加資格つまり国家秩序そのものを意味していた。このため、斉の桓公が周の襄王を尊び、北狄を討った一連の政治行動が政治理論化され、「華を守り、夷を退ける」という行為は必ずしも異民族排斥を意味していたのではなく、文化秩序を守るための行為と理解された。
百越について
百越とは
百越とは浙江省東海岸を起源として、江南と呼ばれた長江以南からベトナム北部まで広く分布し、現在のベトナム人(キン族)もしくはタイ人の直系の祖先とされる。文字通り、「百越」とは単一の民族を指していたわけではなく、中原から見て東方もしくは南方に広く居していた多種多様な異民族の総称であった。南宋の羅泌(1131年~1189年?)は『路史』で「越裳、雒越、甌越、甌皑、且甌、西甌、供人、目深、摧夫、禽人、蒼梧、越区、桂国、損子、産里、海癸、九菌、稽余、北帯、僕句、区呉、是謂百越。」と述べられているように、後代の宋においても百越は広く分布する南方の異民族を指すものであると認識されていた。
夏の時代には「於越」、殷代には「戉方」、周代には「揚越」、戦国時代に至って初めて「百越」と呼ばれるようになったとされる(ただし、越国滅亡後に戦国時代においては国号としての「越」「揚越」「百越」を混同している用例が散見される)。「越」の語源は甲骨文にも用例が見られる「戉(まさかり)」であり、浙江省の百越に相当する地域では「鉞」(ただし、ここで言う鉞は石器のものも含む)をはじめてとして犂鋤(牛馬にひかせて田畑を耕す農具)や錛(ちょうな、木材を切削する工具)といった道具が発見され、現地の百越が発明したと考えられている。
「越」と「戉」は刀剣や斧を示す語であり、祭祀や権力移譲にそれらが用いられたことが推測され、そこから「越」の呼称が生まれたとの説もある。実際に百越居住地の一部は刃物の産地として古来より知られており、越人の刀匠には欧冶子(生没年不詳)・干将(生没年不詳)・莫耶(生没年不詳)・徐夫人(生没年不詳)といった名人がいる。また、『荘子』「刻意第十五」に「夫有干越之剣者、柙而蔵之、不敢用也。寶之至也(夫れ干越の剣有る者は、柙してこれを蔵し、敢えて用いざるなり。宝の至りなり。)」という記述があるだけではなく、『周礼』「考工記」に「鄭之刀、宋之斤、魯之削、吳粵之剣、遷乎其地而弗能為良。(鄭の刀、宋の斤、魯の削、呉粵の剣、其の地を遷せば良く為ること能わず)」とあるように、越で鍛えられた剣には価値があるとされた。また、「粤」という字は現在では広東省を指す語であり、「越」「戉」「粤」はいずれも現在の標準中国語ではyuèと発音される。また、チワン語では刀や刃物を指す語は「je(ye)」であり、百越とチワン族の関係性および連続性を示しているとされている。
百越の言語
百越で話されていた古越語(百越語)については、詳細は断片的な文献資料や中国語を主とした他言語への借用語から類推する他なく、言語系統はいまだ合意に到ることのできる見解と結論が出ていない。劉向(紀元前77年~紀元後6年)の著作である『説苑』には「越人歌」と呼ばれる越の民謡が見られ、楚語とは異なり漢字による音表記で『楚辞』に似たような形式となっており、便宜的に漢字音を当てているだけなので当然それ単独では漢語としての意味はなさない。
「越人歌」原文
濫兮抃草濫予昌枑澤予昌州州州焉乎秦胥胥縵予乎昭澶秦踰滲惿隨河湖。
漢文による意訳
今夕何夕兮、搴舟中流。今日何日兮、得與王子同舟。
蒙羞被好兮、不訾詬恥。心幾煩而不絕兮、得知王子。山有木兮木有枝、心悅君兮君不知。
現代語訳
今晚是怎樣的晚上啊、我駕著小舟在河上漫遊。今天是什麼日子啊、能夠與王子同船泛舟。
承蒙王子看得起、不因為我是舟子的身份而嫌棄我、責罵我。心緒紛亂不止啊、因為我知道他居然是王子。
山上有樹木啊、樹木有丫枝。心中喜歡著你啊、你卻不知道。
今宵はなんと楽しい夜であろうか、私は河に小舟を浮かべて。
今日はなんと楽しい日であろうか、王子と同じ船に乗れて。
王子に認められて、船頭だからと言って蔑んだり叱ったりしない。私の心が混乱しているのは、私が彼が実は王子だと知っているから。
山の上には木々があり、それらの木には枝があるように、私があなたに思いを寄せていることをあなたは知らない。
この他、『穆天子伝』(作者・作年ともに不詳)や『越絶書』(後漢初期に成立?)にも同様に非漢語系の単語があり、それらはタイ・カダイ語族の単語との共通性が指摘されている。『呉越春秋』や『方言』にもわずかながらも越語由来の人名も確認できる。
広東語・閩語(下位方言は閩北語・閩南語・厦門語・潮州語・海南語・台湾語など)・客家語・呉語(下位方言は上海語・蘇州語・温州語・寧波語など)は百越語を基層言語にしたものとされる。広東語はチワン族(壮族)やトン族(侗族)といった少数民族の話すタイ・カダイ語族の影響も受けており、閩語も同じく越の王族によって閩越が建国された際にタイ・カダイ語族に属する現地の言語を吸収してたものと思われ、現代のタイ・カダイ語族とも一定の類縁関係があり、それに影響を受けた古代閩越語由来の低層語彙が含まれていることが判明している。それら百越語の後裔ともいえる方言は「有音無字」というフレーズに代表されるように漢字はないが音だけ存在する単語が存在する他、古い中原の発音を保存しているという特徴も有している。
古越語とも呼ばれる漢民族征服される以前の百越の言語は、その最大の特徴として修飾語と被修飾語の関係が語順において「被修飾語+修飾語」となることであり、『越絶書』にも「朱餘者越鹽官也。越人謂鹽曰餘。(朱餘なる者は越の塩官なり。越人塩を謂ひて餘と曰ふ)」とあるように古くから語順が中原の言語とは異なることは指摘されており、この一文では「朱」が官名を指し「餘」が「塩」を指している。『春秋』「哀公元年」に「呉王夫差敗越于夫椒」という記事があり、これについて杜預(222年~284年)は注釈にて「夫椒、呉郡呉県西南太湖中椒山。(夫椒は、呉郡呉県西南太湖中の椒山なり)」としており、「夫椒」とは「椒山」を指し、「夫」とは「石山」のことでチワン語の「pja1(岜)」やタイ語の「ผา(pha=崖)」との類似性を指摘する声もある。
この他、現在も華中・華南に多く存在する「余(浙江省余姚市、浙江省杭州市余杭区、など)」は田地を指し、「句(浙江省鎮江市句容市)」のような「句」は族群を、「会稽」は「矛の山」、「盱眙(江蘇省盱眙県)」は「善い道」の意味であるとされている(「盱眙」という漢字に目偏があるため山頂より「目を見張り(盱)」「じっと見る(眙)」という説もある)。

