殷周の成立経緯

殷の領土

考古学的に中国最古の王朝とされている殷は紀元前1700年頃から10の氏族からなる部族連合の形で華北の黄河デルタ地帯を中心に統治していた。『史記』によれば殷の湯王により暴君として知られた夏の桀王は滅ぼされ、殷王朝が成立したとしている。これまでに夏の実在を証明できる考古学的史料が発見されておらず、夏は存在していない王権と定義するのが現在の世界における中国史学界の共通認識である。中国では1995年~2000年に実施した夏殷周断代工程(夏商周年表プロジェクト)に基づいて夏を「存在していた」と断定しているが、これはかなり政治的・民族的観念が強いものである。これによると夏の建国は紀元前2070年頃、殷が夏を倒して王朝を立てたのが紀元前1600年頃としている(周の建国は紀元前1046年頃と定義している)。

『史記』では夏の桀王は自身の暴政と愛妃の末喜により国を滅ぼしたとしており、これは後世の『史記』『国語』のような史書では殷が滅びた一因は妃の妲己であると解釈していることに酷似している。少なくとも甲骨文を解読する限りでは当時妲己なる人物が存在したことを裏付ける記述はなく、殷代当時にはそもそも「妲」の字が存在していなかった他、「己」は男性が死んだ際に諡名として与えられる十干由来の語であるために女性に付ける漢字としては適切ではない(女性の場合には「妣」や「母」となるのが通例)。夏王朝どころか桀王自体も存在していたかどうかを証明する術はなく、伝承上では殷の前王朝として夏が存在していたということになっており、夏が滅びた原因は殷の紂王のような暴君が存在し、かつ滅ぼす一因を作った王妃がいたはずという古代中国人の想像の産物であると推測が可能である。紂王は放蕩の限りを尽くした「酒池肉林」の故事成語で知られるが、桀王にも「肉山脯林」という暴政ぶりを示す言葉で有名である。この他、桀王が滅ぼされたとされる鳴条の戦いも紂王が最期を遂げた牧野の戦いにも非常に似ている。

殷は確実に存在したものの、これまでに殷墟で大量に発掘されてきた甲骨文や青銅器といった史料からは湯王の治世の詳細や湯王自体の存在を証明するものが見つかっておらず(ただし、湯王を指す語として「唐」「大乙」といった名称は甲骨文字で確認できる)、現時点では紀元前1250年頃〜紀元前1192年頃に在位していたとされる第二十二代の武丁が存在を確認できる最古の殷王である。武丁の妻の一人であった婦好もその墳墓が殷墟にて幸運にも盗掘を免れた状態で1976年に発見され、鼎といった2,000点近くにのぼる副葬品からも実在したことが証明されているただし、『史記』をはじめとする伝世文献には婦好に関する記述は見られない。

紀元前1046年頃に紂王の治世に連合体の一構成部族であった周の武王が諸部族(「牧誓八国」と伝えられる周の近辺の庸・蜀・羌・髳・微・盧・彭・濮の8部族)を糾合して、夷方と呼ばれた東方の異民族への大規模遠征を殷が行っている間隙を縫ってこれを滅ぼす。『史記』では紂王は放蕩と暴政で天命を失ったことにより周に替わられたとしており、考古学的には紂王(名前も甲骨文では「帝辛」となっており、存命中は「王辛」であった可能性がある他、戦国時代の竹書では「受」としている例もある)は他民族の虐殺と生贄祭祀を歴代の王と同等もしくはそれ以上に繰り返していたことが判明している。このような強権的な支配体制が人心の反感を招き、結果的に紂王の遠征中の背後をついて武王が挙兵したとされる。ただ、実際には武王に限らず、生贄を差し出すように強制するなど従前の殷の統治制度に不満を抱いていた各地の部族の反乱が当時は多数発生していたものと考えられる。

周の第三代王である康王(?~紀元前996年)の治世に作成された大盂鼎には「丕顯文王受天有大令、在武王嗣文乍邦丕〔おお〕いに顕かなる文王天の有する大令受けられ、武王に在りては文を嗣ぎて国を乍〔つく〕る」という一文があり、ここには殷ではすべての行為が神の託宣により人間の運命が判断されていたものが、周では人間の側の実践する政治の善悪により天命が左右されると考えていたことが分かる。つまり、殷はその暴政が天命の喪失を招き、代わりに周が「天有の大命」を受けた周が殷を打倒したという論理であり、殷から奪権と周自身の統治の正当化に他ならない。この周の統治思想は後に孔子が創始した儒教の中心に置かれたために、「天命」という考え方やそれを改める「革命」の思想が以後の中国史において政治思想の中で中心的な位置を占める極めて大きなテーマとなった。とりわけ、「革命」には平和裡に行われる政権交代である「禅譲」と武力を用いた政権交代である「放伐」の二種類が存在した。中でも天命を受けて徳と失った王朝を新王朝が武力によって倒して新政権を樹立するという放伐の論理は1911年の辛亥革命まで各王朝がその正統性を示すのに運用され続けた。

殷・周と羌族

殷について

殷の成立過程

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1930年代当時の殷墟の発掘調査風景

現時点で中国最古の王朝と認定されている殷は中華文化圏では一般的に「商」と呼ばれている。司馬遷(紀元前145年?~紀元前87年?)による『史記』の「殷本紀」によると殷の始祖とされている契(せつ、子契)が禹の黄河治水事業に貢献した功績を古代の聖王である舜から称えられたことにより、与えられた土地が商(商丘)であったとされる。

一方で甲骨文では「大邑商」「天邑商」あるいは単に「商」という語が確認でき、殷は商という大邑が他の邑を服属させる邑制国家であったことから、これがそのまま部族や国家(都市国家)を指す名称となった。「商」は明るい高台に居を構えるという意味を示す漢字であり、それに代わって覇を唱えた周によって「殷」と呼ばれるようになった。

「殷」とは元々は商の人々の狩猟場となっていた河南省鄭州市に位置する黄河西北の土地を指している。甲骨文では王朝名としても一般名詞としても「殷」の用例は確認できず、殷後期の首都名を「商」と呼んでいたことが分かっている。『史記』においては「商」ではなく「殷」と「殷本紀」を採用しており、日本で「商」ではなく「殷」を取るのはこれに由来している。

黄河下流いわゆる河北・河南の低地デルタ地帯を中心に栄えた王権が殷であり、その名の由来となった鄭州市西北の土地の丘陵地帯を拠点としていた。黄河はこの丘陵地帯の低地でたびたび河川氾濫を起こしていために、殷人は洪水の難を避けてたびたび居住地の移転を余儀なくされていたようである。それを裏付けるかのように『史記』や『竹書紀年』などに伝わる伝承によれば、亳(河南省商邱県、初代湯王から第9代雍己まで)、敖(河南省栄陽市、第10代中丁と第11代外壬)、相(河南省安陽市、第12代河亶甲)、耿(河南省焦作市、第13代祖乙から第16代祖丁まで)、奄(山東省済寧市曲阜市、第17代南庚と第18代陽甲)、大邑商=殷墟(第19代盤庚~第30代紂王)というように遷都を繰り返したとされる。殷墟(河南省安陽市)とは殷の首都の跡地というような意味であり、紀元前207年の秦の将軍であった章邯(?~紀元前207年)が反秦の主翼勢力を率いる項羽(紀元前232年~紀元前202年)に対して降伏した場所も殷墟であった。

殷は現時点で最古と認定可能な王朝であり(加えてそれ以前の王朝の存在が確認できない)、『史記』では暴君とされた夏の桀王を湯王が倒して建国したものとしている。河南省鄭州市新鄭市で2010年に発見された大規模な城址である望京楼遺跡は殷初の都市と推定され、考古学的調査により宮殿以外の同都市内への激しい破壊行為の痕跡のみならず顔面が陥没した頭蓋骨や手足が切断された遺体の遺骨が出土するなど、仮に夏もしくはそれに相当する王権が実在したとすれば、殷により夏が攻撃を受けたのではないかとの指摘もある。同遺跡からは遺骨とともに殷の青銅器も発掘されており、紀元前1628年頃にギリシアのエーゲ海のサントリーニ・カルデラにおいて発生したミノア火山噴火が史上最大級かつ世界的な天候不順を引き起こしていることが遠因で望京楼遺跡に見られるような夏から殷への交替があったともされている。

清末には古来より伝統的に神聖視されてきた儒教的史観を批判的かつ懐疑的に扱って研究する擬古(擬古主義)が中国国内で提唱されるようになると、『史記』に描かれた殷の存在も疑問視して然るべきという風潮が生まれつつあった。しかし、1899年に金石学者の王懿栄(1845年~1900年)により甲骨文が発見され、続く劉鶚(1857年~1909年)・羅振玉(1866年~1940年)・王国維(1899年~1927年)らによって研究が進んだことから、結果的に殷の都が営まれたとされる遺構の殷墟での発掘調査が進み、これまでに10万点以上の甲骨や数千点の青銅器が出土している。膨大な数の文字資料はほぼほぼ『史記』に一致する内容であることが判明し、現在も調査や研究が進むとともに政治制度や社会の全貌と詳細が次第に解明されてきている。

『史記』では殷の初代の王を湯王(天乙)とするが、殷墟から出土した甲骨文や青銅器などの文字資料からは湯王以降、第21代王の小乙まで存在を示す証拠は確認できていない。現在最古の実在した殷王と認定できるのは第22代の武丁であり、かつ『史記』に記されている武丁以前の王は司馬遷自身の創作もしくは伝承の中で形成されていったか、殷代後期に系譜に追加されたものであるとの指摘がある。『史記』や『尚書』では第十九代の盤庚が殷墟に遷都したことが記されているものの、殷墟から発掘される甲骨文からは盤庚以前についての記述が確認できず、少なくとも盤庚・小辛(第20代)・小乙(第21代)といった殷王は殷墟にいなかったのが実情のようである。これは祖乙(第13代)から武丁までは殷が乱れており、その混乱を収めたのが武丁であったと近年の研究から推定されている。甲骨文で名前の確認できる歴代の殷王は大乙(湯王)・大丁(史書では即位前に夭折)・大甲(第4代)・大庚(第6代)・大戊(第8代)・中丁(第10代)・祖乙(第13代)に加えて、卜丙(第2代)と小甲(第5代)である。この他、上甲(上甲微)・大乙(湯王)・大丁(太丁)・大甲(太甲至)・祖乙(第13代)が「五示」と呼ばれた直系の先祖がいたと甲骨文は示している。

『史記』が編纂された時代は儒教的価値観に基づいた家族制により世襲による親子相続か兄弟相続も殷の時代にあてはまるものと考えられてきた。しかし、近年の研究では必ずしも世襲であったわけではなく、実態としては殷は複数の氏族共同体で構成された連合体であったことが分かっており、少なくとも2つ以上の王族で成り立っていたと考えられる。殷社会は邑と呼ばれる氏族ごとの集落単位で構成されており、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していたものと思われ、多数の氏族から推戴された君主が殷王とされる。殷代後期になると、周辺の方国と呼ばれた地方勢力の征伐や外敵からの防衛が活発化することによって、殷の王権は次第に専制君主的な性格を帯びるようになった。この絶対的な王権は殷の祭祀政治を強め、生贄を捧げる鬼神崇拝がより多くの生贄を戦争捕虜に求めたことが殷滅亡の遠因のひとつであったともされている。

殷代は前期・中期については文字資料がないために不明点が多いものの、鄭州商城や偃師商城といった殷代初期の黄河中流から下流に栄えた青銅器文化すなわち二里岡文化(紀元前1600年頃~紀元前1400年頃)の遺構がその時期のものとされる。二里岡文化に先行して紀元前2100年頃~紀元前1800年頃もしくは1500年頃に二里頭文化が存在し、それは新石器時代から青銅器時代への移行期であった。二里岡文化は基本的にはこれを引き継ぎながらも青銅器を大々的に製造・使用し、その様式が均一かつ洗練されたことで青銅器がより広く普及していった。鄭州商城は敖に、偃師商城は亳にそれぞれ比定される(もしくは両者のいずれかが亳という説もある)。両者は殷最後の都である殷墟との間に大きな時間的断絶があるとされてきたが、近年殷代中期の遺構と推定される洹北商城(河南省安陽市花園荘)や小双橋遺跡(河南省鄭州市)などが発見され、建築や祭祀の遺構から殷の王権や社会の成立過程についての解明が進みつつある。

殷の文化圏

殷に先行する二里頭文化について、北はモンゴル、南はベトナムからその影響を受けた器物が出土している。反対に現在の雲南地方・ミャンマー・ベトナム・南シナ海・海南島・広西・新疆といった地域から翡翠・瑪瑙・水晶・海産貝(タカラガイ・イモガイ)・錫といった物産がもたらされたことが判明している。殷についても調査・分析を進めると、領土としては確かに華北東部に限られるものの、同じように広域な交易ネットワークが存在していたことが分かっている。

殷を象徴する文物である甲骨文に用いられた素材は基本的に牛骨か亀甲であった。亀甲については、殷の領土内で捕獲された小型のカメのほか、各地から殷王室に献上された亀が用いられていた。鑑定によると、ほとんどが中国産のハナガメとクサガメに分類されるが、殷墟の位置する河南省一帯には現在ハナガメは生息しないとされ、ベトナム・華南・広東・広西周辺のものが原産との指摘もあり(もちろん鄭州のものが殷人によって乱獲されて絶滅した可能性もありうる)、現在マレー半島に生息するリクガメと同一種の大亀の亀甲も出土している。少なくとも亀甲について言えば、流通経路として南方世界とは何らかの形で交易ルートを持っていたものとされ、殷代後期には亀甲での卜占はかなり稀なものとなり、大半が牛骨で賄われていたようである。牛骨に切り替わった理由としては、殷代後期には卜占を行う機会が急増したことから入手しやすく、なおかつ加工もしやすい牛骨が重宝されたとのではとの意見もあるが、反対に殷代後期は政情不安により南方からの亀甲供給ルートを失ったのではないかとの指摘もある。

また、殷代初期に相当する二里岡文化の鄭州商城では青銅器の製造とその技術は大いに発展するが、偃師商城からは城郭の外に青銅器を制作した工房や青銅器を保管した坑が数か所発見されている。かつ、この時期の青銅器が地域的にも広がりを見せ、河北・山東・陝西・湖北など各地から鄭州商城と共通した様式の青銅礼器が出土している。

滅亡後の殷

牧野の戦いにて殷を滅ぼした周は建築・製陶・鋳銅・兵器製造・織物などの各部門にわたる殷の職業士族を吸収し、協力した部族や家来に分け与えて封建分割支配を始める。周は先進文明としての殷の文化を積極的に取り入れ、同族や友好的な部族を「侯・甸・男・邦・采・衛」と区分して統治し、孔子はこれを「周因於殷礼、所損益可知也周は殷礼に因り、損益する所知るべきなり)」(『論語』「為政」)と評して風俗・習慣・制度といった殷の旧制に倣ったことが明らかとしている。裏を返せば、『書経』に周の文王がかつて粗末な衣服を着て自ら畑仕事をしている逸話があるように、周は初めはまだ極めて素朴な農耕共同社会であったことも暗示している。この他、殷人が天を祀って祖先を祭ったのに倣い、周人も同様の習俗を継承していった。『書経』「洛誥」には

孺子来相宅、其大惇典殷獻献民
孺子来たりて宅を相(み)る、其れ大いに惇(あつ)く殷の献民を典とせよ
※「孺子」とは周の武王の子である成王を指す。

とあり、殷の遺民を登用して洛邑(洛陽)造営に活用するように述べている一文が見られ、文字や旧来の伝承故事といった殷の遺民の知恵もそのまま周代に継承されていった。殷の遺民は洛陽に集められただけではなく、各地にも分散させられていった。例えば、山東地方の東夷を征伐するのに、周公旦の子である伯禽(?~紀元前997年)には「殷民六族」が、衛康叔(生没年不詳)には「殷民七族」が、唐叔虞(生没年不詳)には「懐姓九宗」が与えられたという記事が『春秋左氏伝』に見られる。

殷滅亡後に紂王の子である武庚は武王により殷の故地を与えられたが、同時に殷の旧領には武王の弟である管叔鮮(?~紀元前1039年)と蔡叔度(生没年不詳)も封じられ、周公旦による周朝の摂政政治に不満を持ち、紀元前1042年に武庚・管叔鮮・蔡叔度が共謀した上で殷と繋がりがあった東部の淮夷と結託して、周に対して大規模な反乱を起こす。これは三監の乱と呼ばれ、反乱鎮圧には3年も要したとされるものの、これにより周は中原の支配を本格化させるために諸侯を再編して新たなる封建制を確立した。

全領土のうち、3分の2は周室の親族や譜代とも呼べる忠誠心の高い家臣が主に黄河と太行山脈に沿った戦略的に重要な拠点に位置する諸侯国に封じられ、残りの地には遠隔地に殷の王族やその同盟国を封じることで周王朝の脅威を削減することに成功した。例えば、晋(山西省)・魯(山東省西部)・衛(河南省西部)・鄭(河南省西部)・燕(河北省北部)といった国が周の同族に分け与えられ、斉(山東省東部)・陳(河南省中部)は友好部族へ支配を委任する形となったのと同時に、殷の遺民の懐柔政策として殷の王族出身である微子啓(生没年不詳)が黄河中流のデルタ地帯に建てた宋(河南省中部)に封じられた。特に衛については三監の乱の戦後処理として殷の旧領を東西二分割にした上で、西部については衛康叔を、東部については宋を建てて微子啓が配置された。後に微子啓は嫡子がないまま没したために兄の微仲衍が宋公の地位につき、孔子はその子孫と言われている。孔子の出身地である曲阜はかつて殷の都が置かれた奄と呼ばれており、周建国後に置かれた魯には周公旦の子である伯禽が曲阜に封じられ、住民の大半が殷人であったことから殷滅亡後の鎮定には慎重かつ神経を使うような統治から始まったとしている。

殷人はこのようにして一部では周に重用されながらも、他の亡民は土地や職業を奪われたことで各地を巡って物を売ることを唯一の生業とせざるを得ず、これが「商人」「商業」の語源となった。このようにして、本来部族社会内部に留まっていた殷の文化が周により吸収されて部族を越えた一種の文化的統一をもたらし、文化人たる殷の遺民が中原を中心とした華北各地に分散したことで古代中国の文化圏が拡大するひとつの契機となった。

この他、『三国志』「魏志・烏丸鮮卑東夷伝」に現在の中国東北部にあった扶余では殷の暦を用い、なおかつ殷で神聖視されていた白色を尊ぶ習慣があるという記述があり、殷と扶余との間に何らかの関係性があったことを示唆している。

箕子朝鮮

古代朝鮮には箕子朝鮮と呼ばれる国家があったとされ、紂王の叔父である箕子(生没年不詳)が建国したという伝承がある。同じく紂王の叔父でもあり兄弟の比干(生没年不詳)とともに紂王の暴政を諫めたことで幽閉されてしまったが、武王が殷を倒して周を建てると解放された箕子はその博識さから文王は崇めて敢えて家臣とすることはなく、朝鮮王に封じられた。箕子は礼制だけでなく農業・養蚕・機織の広め、犯禁八条と呼ばれた刑法をもって朝鮮の民を教化して統治していったという。

紀元前10世紀頃の周初から斉が山東半島を領有したことから箕族と呼ばれる一族が存在しており、朝鮮西部の遼寧一体で活動していたことが判っている他、春秋時代以来彼らが燕や斉から朝鮮半島への往来していたことも分かっている。また、北京・河北省・遼寧省で「箕」「箕侯」といった語が西周の青銅器から発見されており、箕子朝鮮もしくはそれに相当するような政権との何らかの関係を指摘する声もある。ただし、これら出土物が周初のもので、現時点では箕子朝鮮との関連性を否定することはできず、その反面で箕子朝鮮の領土を示すものであると断定することも難しい。また、箕子朝鮮の都とされた平壌からは井田制の痕跡らしきものがあり、ここには李氏朝鮮初期から箕子を祀る祠堂があったとされる。

箕子朝鮮は中国側の史料である『史記』に見えるのみであって、中国内外に同時代史料もなく、箕子や彼が開いた箕子朝鮮が実在したことが確証できる文字文献と出土物が朝鮮現地で発見されていないのが実情である(ただし、平壌の箕子陵に代表されるような箕子の事績やその「証拠」があったとされる)。『史記』の記述についても漢代までには箕子朝鮮の伝承がある程度出来上がっていたとされ、後に漢の武帝(紀元前156年~紀元前87年)による朝鮮征服と漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡、玄菟郡)設置の契機に本格形成されたものと考えられている。

箕子朝鮮は漢代に燕王となった盧綰(紀元前247年?~紀元前194年)に仕えた衛満(生没年不詳)が箕子の子孫である第41代王の準より王位簒奪をしたと言われ、衛満はいわゆる衛氏朝鮮を建国するが孫の衛右渠(?~紀元前108年)に武帝の遠征に滅ぼされたとされる。

また、後世において14世紀に李氏朝鮮建国の際に朝鮮側が国号として「朝鮮」か「和寧」のいずれを選ぶべきか明側に裁可を仰ぎ、明側での周の武王が箕子を朝鮮王としたことになぞらえたいという意向と、朝鮮側としても前代の高麗よりもより権威づけるために東夷の中で初めて天命を受けた檀君と朝鮮を教化した箕子の国を継承した正当性を証明したいと考え、両者の思惑が一致して国号が「朝鮮」になったとされている。

以後、儒教化していった李氏朝鮮では箕子は聖人として長らく崇拝・信仰されていったが、20世紀初頭より民族意識の高まりから独立運動家の申采浩(1880~1936)の影響でそれまで深く顧みられていなかった神話上の人物である檀君が箕子に取って代わるようになった。結果的に檀君至上主義が侵すべからず朝鮮民族主義のイデオロギーの源流として北朝鮮でも韓国でも支持されていき、それまでの朝鮮半島における小中華思想の根幹とも言えた箕子については否定的もしくは過小評価するというのが現在では一般的にとなっている。前述の箕子陵は1959年に北朝鮮政府により朝鮮民族を侮辱するものとして破却され、その跡地には1984年に凱旋青年公園なる遊園地が開業している。

周について

周の勃興

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周の領土

「周」とは稠密の稠(畑の隅々まで禾=作物をびっしり植えたという意味)を指す語で、すなわち豊穣な農耕地を示している。紀元前256年に秦により滅ぼされるまで周は黄河中下流域の中華文明の発祥地と位置付けられた、いわゆる中原を中心に周辺地域を統治していくことになる。

周族の起源については諸説あり、紀元前3000年~2000年に栄えた黄河上中流域に栄えた龍山文化のうち陝西龍山文化が紀元前2500年~1900年の斉家文化(甘粛省の黄河上流域)や殷代の文化に影響を受けたもの、山西省太原市周辺で光社文化が関中と呼ばれた渭河盆地に西進して殷文化などの受けたもの、もしくは甘粛省臨洮県の寺洼文化が淵源とするものなどがある。

いずれにせよ、舜に仕えた后稷の子孫で、文王の祖父とされる古公亶父の時代に異民族の攻撃を受けて(その異民族の名称は「薰育戎狄」としているのみに留まり、詳細は記されていない)、それまでの定住地であった豳(陝西省咸陽市旬邑県)から岐山(陝西省宝鶏市岐山県)の麓に位置する周原に移り住み、これが周の始まりとされている。また、『史記』では古公亶父には太伯と虞仲と呼ばれた子がいたが、古公亶父が三男の季歴(文王の父)を後継者とする意向を察して、南方に移り住んで建国した国が後の呉であるとしている。

発掘された殷代史料の中に周は殷から見て周辺の蛮夷に相当する方国のひとつであり、時として征伐の対象となっていたことが判る銘文が確認されている。その一方で、甲骨文からは殷が周に命令を下した一文や「周侯」と記した一文が見られ、次第に周が殷に服属していったことも判明している。この他、殷の王室に嫁いだ「婦周」「周妣庚」という周出身者と思われる人物の名前が見られ、武丁以降に婚姻を通じて殷王室に連なる上層貴族と見做されるようになっていき、文化習俗だけでなく信仰や言語も殷に同化していったと思われる。その証拠に文王は紂王より殷の西方を統治する「西伯」の称号を授けられており、これは殷と周の関係性がある程度は親密であったことを物語っている。

Zhou wenwang
周の文王

殷周革命と呼ばれる殷から周への変革は部族連合社会から貴族社会への転換点であり、中原は後に中華世界において権力の中心そのものと見做されるようになった。中原を中心とした殷と周の合体により、華北と華中は統合され、「中夏の民」すなわち漢民族の文明圏が誕生した。「夏」とは元々は頭に冠をかぶり肩から衣を着た人間を描いたもので、それは衣冠を身に着けた大きな人を示す美称でもあり、これが転じて樹木が一面に葉をかぶる季節も「夏」と呼ぶようになった。

当初、陝西省の鎬京(現在の西安市)を中心に周王朝は政治を行っていたが、新たに洛邑(洛陽)に都を構えて華北と華中を徐々に制圧し、それとともに周が殷の文化・技術・政治機構などを接収していったことにより、漢字文化圏が華中以北に拡張していった。

Zhou wuwang
周の武王

孔子および儒家は周の政治を理想の徳治政治と捉え、周の文王・武王・周公旦(武王の弟)を道徳的かつ模範的な君主であり聖人として見ていた。そして、孔子の出身地である曲阜のある魯は周公旦が封ぜられた国であり、周王朝の礼制を定めたのが周公旦とされていることから、魯では周公旦以来の伝統を引き継ぎ古い礼制が残っていたという。このような背景から孔子は自身を周の礼制を正しく継承していると自認するようになり、それを体現する教団として儒家を形成していく。

 

 

周の興隆と衰退

西周

武王により周王朝が建国され、その子成王(?~紀元前1021年)および孫の康王(?~紀元前996年)には「成康の治」と呼ばれた後世に称えられる治世があったとされるが、周建国樹立直後には周公旦(?~紀元前1037年)の統治に不満を懐いた旦の兄弟である管叔鮮(生没年不詳)・蔡叔度(生没年不詳)・霍叔処(生没年不詳)と呼ばれた三監(殷の旧領および遺民を監視する役割)および紂王の子である武庚(生没年不詳)により三監の乱が紀元前1042年に勃発した。これは何とか鎮圧できたものの、第4代の昭王(紀元前1027年~紀元前977年)以降は諸侯に対して影響力を喪失し、周王朝の権威は徐々に低下していく。

第5代の穆王(?~紀元前922年)以降、それまで行っていた周王による周辺の蛮族への親征を行うことがなくなり、この背景には軍事的に遠征することから外敵からの防衛に徹することが多くなったためである。以後、第6代共王(?~紀元前900年)、第7代懿王(?~紀元前892年)、第8代孝王(?~紀元前886年)、第9代夷王(?~紀元前878年)と続き、自ら祭祀を行っていくことで軍事的に弱体化しつつあった王権の強化を図り、かつ礼制を改めて周王室への求心力を維持しようと試みたことで、ひとまずは政権は安定していた。

しかし、一方で夷王が讒言により斉の哀公(?~紀元前863年)を釜茹での刑で処刑したことに始まり、次代の第10代厲王(?~紀元前828年)も暴虐を極めたことにより大規模な反乱がおこったため、厲王は亡命する事態にまで発展する。この際、王が不在の中で周定公(生没年不詳)と召穆公(生没年不詳)が合議制により、「共に和して」政治を行ったことが、後に「republic」を「共和制」と訳した起源である(ただし、漢訳したのは日本の江戸時代の地理学者であった箕作省吾〔1821年~1847年〕によるもの)。以後、厲王の子である宣王(?~紀元前782年)が第11代の周王となったために一旦は国政は回復する。

宣王の子である幽王(紀元前795年~紀元前771年)が第12代王に即位すると西申国の申侯(生没年不詳)より迎えていた王妃を廃して褒姒(生没年不詳)を新たに王妃とする。申侯はこれに激昂して西戎と呼ばれた西方の異民族のひとつとされる犬戎と図って鎬京を攻撃し、幽王を殺害してしまう。これは申侯の乱と呼ばれた反乱であり、これを機に周の凋落は決定的になった。幽王の後継者として携王(?~紀元前750年)が虢公翰(生没年不詳)らにより擁立される一方で、同じく幽王の子であった平王(?~紀元前720年)も別の勢力により擁立された。周の王が二人同時に存在したという異常事態であったとされるが(これを「二王並立」と呼ぶ)、近年の研究では同時に存在していたわけではなく、携王は擁立されたものの殺害され、その後に即位したのが平王であったのではないかとの指摘もある。いずれにせよ、最終的に残った平王は従来の都であった鎬京ではなく、東の洛邑(洛陽)に遷都して即位したことから、紀元前770年までを西周と呼び、それ以降を東周と呼ぶ。

東周

平王の孫である桓王(?~紀元前697年)が第14代王に即位して周の権威回復に努めるも、紀元前770年に繻葛の戦いで一諸侯国にすぎなかった鄭に敗北したことで諸侯への影響力は一気に低下していった。また、周王室内での王位継承争いのような権力闘争が激化し、実際の姿として周は洛陽周辺に影響力があるにすぎない小国となっていた。湖南省随州市にあったとされる曾国では侯の墳墓から「周室既卑周室既に卑〔ひく〕し)」という銘文が刻まれた青銅器が発見された他、秦の景公(?~紀元前537年)の墳墓から発見された埋葬品からは周王以外用いることができない「天子」という称号の銘文が見つかっており、同様に『史記』によると魏の恵王(紀元前400年~紀元前319年)は「夏王」「天子」を自称して周に取って代わる意思を示していた。こういった事実から各地の諸侯に対する周の存在がすでに有名無実化していたのが窺い知れる。

戦国時代には第23代の顕王(?~紀元前321年)の代となると、春秋時代に各地の覇者に対して行っていた儀礼を行うことで、当時西方から勢力圏を拡大しつつあった秦を懐柔してその保護を受けようと試みた。結果的に顕王の周が秦の保護下に入ったという直接的な記録はないものの、秦の恵文王(紀元前356年~紀元前311年)はそれまで秦の君主が自称していた「君」から「王」を称するようになり、以後秦では王号が用いられるようになった。これは辛うじて残存している周の権威を利用しつつも、もはや秦は周に従う立場ではないという意志の表明であった。

後に秦だけはなく、魏の恵王が「夏王」「天子」を自称したのと同様に、魏の恵王との徐州での会盟にて斉の威王(?~紀元前320年)も王を称するようになった。この他、韓の宣恵王(?~紀元前312年)、燕の易王(?~紀元前321年)だけでなく、宋の康王(?~紀元前286年)や北狄に起源を持つ中山国の(さく、?~紀元前313年)といった小国の諸侯ですら本来は周の天子のみが名乗ることのできる「王」の号を称するようになった。秦の昭襄王(紀元前325年~紀元前251年)や斉(田斉)の湣王(?~紀元前284年)に至っては一時的とはいえ、それぞれ「西帝」「東帝」を名乗っている。この他に、各地の諸侯が周が制御できないまでに強大化したのは、晋や斉(姜斉)といった周の建国以来周王室と繋がりが深い諸侯が滅亡していったことも周の政治的求心力の低下に拍車をかけていた側面があったのも事実である。

辛うじて伝統的な権威だけは残っていたため、いわゆる「春秋の五覇」のような有力諸侯は、春秋時代には周を利用して中原の中心たる周王の次ぐ二番目の地位である覇者になろうとしており、戦国時代になると諸侯が各々で王を自称するようになっており、もはや周による統制が全く利かない状態となっていた。周自身も建国以来の伝統と権威を強調することで祭祀を主宰する立場を維持しつつ、それを天下に訴えていた。実際には孔子登場以降に儒家や諸侯が周の礼制を独自に復活・整備するような動きがあったものの、そこには周自身の主導権はないだけではなく、周の祭祀を主催する立場すらも喪失していた。

周末期には周王室(成周)以外に、第16代貞定王(?~紀元前441年)の系統の子孫とする西周と、趙・韓により擁立された西周の威公(紀元前414年~紀元前367年)により建てられた東周により周が三つの勢力に分裂する有り様となっており、もはや中原を統べる諸侯の帝王たる威厳は完全に喪失していた。最後の周王である第37代の赧王(?~紀元前256年)は西周の武公を頼って河南に遷都し、成周の旧領は東周が接収していた。当時勢力を拡張していた秦による攻略を受けて紀元前256年に西周が秦に降ったことで、赧王は秦の保護下に入った。これにより、秦が王畿を占拠して帝王の権威を示す九鼎および周の宝物を接収し、西周および周王室そのものは同年に事実上滅亡した。

唯一、東周の当主として昭文君(生没年不詳)がいたことにより東周がその後7年間存続したが、紀元前249年に呂不韋(?~紀元前235年)により滅ぼされたとされる。戦後の昭文君の処置については、処刑されたとも、東方の土地を与えられて祭祀を続ける立場を任されたともされている。始皇帝の死後に中国各地で反秦の狼煙が上がると、楚・斉・韓といった戦国七雄の王家に連なる一族の人物がそれぞれ擁立された一方で、周についてはその王室を擁立して復興しようとする動きはなかった。漢代に至り、武帝以降に儒教の国教化により孔子とその門人および周王室の子孫を尊重する動きが高まり、周の後裔である姬嘉(?~紀元前107年)が周子南君と呼ばれた地位に封じられ、姬嘉の子孫も独自の地位・官職を与えられるなど丁重な扱いを受けている。

一般的に呼ばれる春秋時代とは、周の幽王が犬戎により殺害されて平王が即位した紀元前770年から周に連なる親藩国であった晋が趙・魏・韓の三国に分裂した紀元前453年までを指す。儒教の教典と見做される『春秋』が取り扱う年代であることから、それがそのまま春秋時代の呼称の由来となった。その次代の戦国時代は前漢の劉向(紀元前79年~紀元前8年)の記した『戦国策』に由来するものであって、その開始年については晋が分裂した紀元前453年(いわゆる戦国七雄の大枠が確定した年)とするか、その三国が正式に諸侯と扱われるようになった紀元前403年とするか、等様々な定義が存在する。一般的には後者の紀元前403年とすることが多く、秦が自国以外の戦国七雄と呼ばれた六大国を滅亡して中国統一を果たした紀元前221年まで続いたものと扱われる。

羌族について

河北・河南の低地デルタに住んでいた殷人に対して、今日の山西省台地で羊の放牧を行っていた羌族は現在のチベット族の先祖とされている。民族名としては「羌(k’iang)」であり、これに由来する氏族の名字を「姜(kiang)」と書くが、これらは同系語である。そして、羊の上古漢語の発音は元々は「ġiang」であり、これが「yiang」に転化した。羌族はヒツジをトーテムすなわち信仰の対象とも見なしていたと思われ、祭礼の際にはヒツジを犠牲として神前に捧げ、ここから「祥(めでたい)」という字は「示(祭壇)+羊」から成り立っている。同じく「美」は神への捧げるヒツジは大きいものが良いという意味であり、「幸」はその変形、「義」はヒツジを自分の所有物にしてしまうこと、「善」はヒツジの鳴き声のように穏やかな口調で喋る、「繕」とは欠けたり破れた個所がないよう整備するという意味である。

また、殷墟から発見される甲骨文には「羌」の文字が散見され、それは中原に脅威である異民族であるとともに、生贄として多くの人間が犠牲になっておりこれも「羌」も呼んでいることから、「羌」とは特定の部族ではなく、殷に敵対的な不特定多数の集団を指していた可能性もある。これも裏付ける根拠のひとつとして、殷墟で発掘された生贄を解析した結果、遊牧民族ではなく農耕民族であることを示すデータも得られている。

ヒツジは羌族にとって食用にできるほか、乳も得られ、羊毛を生み出すことのできる家畜(家畜は中国語で「牲口」とも呼ばれる)であり、牛馬同様に貴重な財産でもあった。また、周の諸王に嫁いだ姜嫄(周王朝の女性の先祖)・太姜(文王の妃)・成姜(武王の妃)といった羌族出身の女性の名前が『詩経』や司馬遷(紀元前145年?~紀元前86年?)の記した『史記』には見られ、この他にも周の文王と武王に仕えた太公望として知られる呂尚(姓は姜、氏は呂、字は牙もしくは子牙)も出身は呂(河南省南陽市)だったが、出自自体は禹の治世に官職に就いて治水事業に貢献した功績で呂に封じられた羌の一族ともされ、羌族と周の強い関係性が窺い知れる。この羌族と婚姻関係を結んでいた陝西高原盆地の周は西方から小麦といった穀物を入手して栽培を開始し、家畜をして豚を飼育することで周は急速に農耕民として成長していったものとされる。

のちに周代に山東方面の斉に封じられることになった羌族の呂氏は有力部族として周の東方に勢力基盤を固めていき、周代中期までは周王室の妃は遊牧を続ける西北の姜姓からではなく、文化の進んだ山東の姜姓から選ばれるようになった。『詩経』「国風・鄭風」に「彼美孟姜彼の美なる孟姜)」といった記述が見られるほか、『春秋』に登場する晋文公の夫人である斉姜や魯の桓公の夫人である文姜といった女性は山東羌族の流れを引く子孫である。西北の羌族が次第に周に疎んじられていき対立していく一方で、周王室は周代を通じて春秋時代に至るまで斉の姜姓と婚姻関係を結ぶことで存続していった。