呉について

呉は現在の浙江省蘇州市に紀元前585年頃~紀元前473年に栄えた国であるが、どのような成立経緯があったのかは具体的には分かっていない。越とは言語系統や文化習俗に似ていることから同種の民族とされているものの、春秋時代において各地の諸侯の間では呉の王族は周王室である姫姓に連なる一族と認識されていたと分かる記述が『史記』や春秋時代の歴史を扱った『国語』に確認できる。また、『史記』によれば呉の公子であった季札(生没年不詳)は賢人として天下に名が広まっており中原各地の名士や政治家と交流を持っていたことから、呉はある程度中原の文化を享受し、かつ自分たち自身は中原文化圏の一員であると自認していたようである。越と同じ言語系統であるとされる呉は元々はタイ語系の先住民族の上に建てられた周の植民地であったともされ、呉の先住民は古くは徐夷・淮夷・南夷と呼ばれた山東省から浙江省周辺に広く定住していた民族の系統であり、呉は先住民族との衝突は避けられないものであったとされる(考古学的調査からも呉が成立したとされる年代以前に農耕社会が存在していたことが確認されている)。

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宜侯夨簋

『史記』「呉太伯世家」によると周王朝の祖・古公亶父の長男である太伯(泰伯)と次男の虞仲(または仲雍とも言う)によって呉は建てられたとしている。後漢の趙曄(生没年不詳)が記した『呉越春秋』によると、太伯と虞仲が移り住むと呉の地は大いに発展したとし、太伯兄弟移住以前の呉では鋳造や農耕はあるにはあったが、両兄弟により中原の先進文化がもたらされて農業が飛躍的に発達したとしている。なかでも、太伯と虞仲が移住した当時は、殷の衰退期で中原各地の動乱の波及を呉の人々が恐れたことから城塁を築き、これがきっかけとなって徐々に呉の各地に城市が誕生していったとされる。

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宜侯夨簋の底面に刻まれた銘文

1954年に江蘇省鎮江市で発見された宜侯夨簋は周王室と呉の関係性を示す約120文字の銘文が器の底に刻まれており、周の康王が虞侯夨なる人物を宜の国に封じて宜侯夨としたという内容である。『春秋左氏伝』「僖公二十四年」には「故封建親戚、以蕃屏周。故に親戚を封建し、以て周に蕃屏たらしむ)」とあり、それは周が建国して間もなく周王室に連なる一族を各地の諸侯として封じたという内容であり、『史記』においても虞仲の曾孫である五代目君主周章の弟・虞仲(太伯の弟とは別人)が周の康王(?~紀元前996年)によって虞の地を与えられたという記事がある。虞や宜については具体的にどの地名を指すのか?、虞とは虔の誤字ではないか?、呉と虞を混同しているのではないか?、周章こそが夨ではないか?、と様々な疑問や学説があり、宜侯夨についてはまだ議論の余地がある。

元々の国号は「句呉」であり、虞仲の子孫である寿夢(?~紀元前561年、太伯から数えて19代目)の時代から正式に「呉」に改名する。南方の蛮族のような語感のあった「句呉」から中原風の「呉」に改めたのである。考古学的史料として清代の1761年(乾隆16年)に現在の江西省吉安市で発掘された者減鐘と呼ばれる青銅器には「隹正月初吉、丁亥、工䲣王皮㸐之子者減択其吉金、自作□鐘、不白不□、不濼不調、協于我霝籥、卑龢卑孚、用祈眉寿□釐、于其皇祖皇考、若召公寿、若参寿、卑汝□□音音、龢龢倉倉、其登于上下、聞于四方、子子孫孫永保是尚。」という銘文が刻まれており、ここに刻まれた「工䲣」が国号としての「呉」という語の初出である(「皮㸐」とは呉王闔閭を指し、鐘の由来となってる「者減」とは闔閭の公子である公子波=終累〔生没年不詳〕であるとされている)。この他、他の青銅器の銘文において「攻吾」「攻敔」と自称していたことを示す用例も確認できる。寿夢以前でこのような使い方を確認でき、寿夢以降でも用いられていた。また、後に闔閭(?~紀元前496年)や夫差(?~紀元前473年)の時代から「攻呉王」「呉王」といった例が確認されるようになり、春秋時代では中原では発音しづらいことから「呉」という呼称に転じたようで、それが中原で正式名称として定着した背景があるとされる。 

史書の記述として呉についての最も古い記述は『管子』「小問」に見られ、斉の桓公(?~紀元前643年)と管仲(紀元前723年~紀元前645年)との会話で「呉が邗を滅ぼした」という記事である(ただし、邗についてはどのような国であったのかは詳細は不明)。また、『春秋左氏伝』「宣公八年(紀元前601年)」に「楚爲衆舒叛故、伐舒蓼、滅之。楚子疆之、及滑汭、盟呉越而還。(楚、衆舒の叛くが為の故に、舒蓼を伐ちて、之を滅ぼす。楚子、之を彊し、滑汭に及び、呉越に盟いて還る。)」という記述が見られ、呉と越の中原との関わりについての初出となる。

寿夢より5代後の闔閭の時代になると呉の国力は強大となり、孫武(紀元前535年~?)や伍子胥(?~紀元前484)といった名臣もいたことから紀元前506年には柏挙の戦いで楚を敗走させ、楚の都である郢を壊滅させ滅亡寸前にまで追い込む。しかし、新興勢力であった越の君主である允常(?~紀元前496年)が呉に侵攻したことにより楚から撤退した。これにより交戦状態となった越と呉は、闔閭の子・夫差が允常の子で後を継いだ勾践(?~紀元前464年)を一時的に屈服させることで、呉は越よりも優勢に立った。中原に覇を唱えようと北上して斉を撃破した呉は諸侯の盟主と認めさせるために会盟を開こうとするが、華北の盟主的存在であった晋の反対により紛糾していた間隙を縫って、国力を密かに蓄えていた越により紀元前473年に滅ぼされる。

越について

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越王勾践

越とは紀元前600年頃から紀元前306年に浙江省の会稽(現在の紹興市)を都として存在した国で、黄河文明によって生まれた周などの華北とは対照的に、長江流域に栄えた長江文明を継承する系統であり、先述の百越に属する民族によって形成されたとされている。『史記』「越王勾践世家」、『漢書』「地理志」、『呉越春秋』では夏王朝の第六代の王・少康の子である無余が会稽に封じられて、現地の習俗に従い、文身(入れ墨)・断髪(髪を結って冠をするのが君子たる装いだが、それをせずにざんぎり髪にすること)したのがそのはじまりとしている。

古くは甲骨文に「于越」、『竹書紀年』では「于粤」、『越絶書』では「大越」(後にベトナムに誕生した大越国とは異なる)としており、『春秋左氏伝』『国語』『史記』では単に「越」としている。かつて、「于越」は他者からの呼称であり、とりわけ斉や魯では越を指して「于越」と呼ぶことが一般的であったとされる。また、一方で越人は自分たち自身を「于越」と呼ばなかったとこれまで思われてきたが、実際には「于越」と自称していた例も確認されている。越は当初は「戉」としていたが、越が大国になると自称の国号として「yue」という字を用いていたが、越が滅亡すると「越」の語が常用されるようになった。

夏王朝の系譜を継ぐことから越の人々は禹の子孫であると自称しており、浙江省紹興市の銭塘江沿岸に位置する会稽山は禹が巡幸していた際に没して山麓の大禹陵に葬られた。始皇帝も中国統一を果たした際には会稽山周辺を巡行し、「会稽刻石」と呼ばれる石碑を建てている。会稽山の麓には紀元前5000年~紀元前4500年に新石器時代の河姆渡文化の遺跡があり、この文化を支えた人々は明らかに華中以北とは異なる文化圏に属する人々であり、初期オーストロネシア人と何らかの関係があるのではとの指摘もある。

「呉越同舟」「臥薪嘗胆」の故事成語で知られるように、越は隣国の呉と抗争を繰り広げ覇を競っていた。両国の争いは三代五十年にも及び、当初は呉王闔閭(紀元前514年~紀元前496年)が越に侵入して逆に大敗を喫する。その子の夫差(?~紀元前474年?)の時代に大挙して越に攻め入り、ついには越王践(?~紀元前464年?)を会稽山に囲み、越王自らが臣下となり妻を妾に進呈しようと申し出たほどの屈辱的投降を強いられるようになった。復讐を誓った勾践は「会稽の恥」を深く念じて忘れず、みずから耕作して妻には機織りをさせて、十年にわたって兵力を蓄えた末、呉王が会盟のために北方に出向いている留守を襲撃して、紀元前473年についに呉を滅ぼすことに成功する。『越絶書』によると呉を滅ぼした後、勾践は都を瑯琊(現在の江蘇省連雲港市)に遷し、斉・宋・晋・魯と言った国と会盟して中原に覇を唱えたとしている(『史記』によると勾践より四代後の翳〔紀元前411年~紀元前375年〕の時代に遷都したという記述があり、両者に齟齬がある)。

しかし、呉を滅亡させた勾践は疑心暗鬼に陥り、腹心の文種(?~紀元前472年)を粛清し、勾践に仕えていた范蠡(生没年不詳)も勾践の性格を熟知していたために斉に亡命した(その後、宋に移り住んで「陶朱公」を名乗り、商売に成功して巨万の富を得ていたともされる)。勾践は越の最盛期を築きながらも、このように人材を失ったことで国力も喪失し、勾践の六世孫の無彊(紀元前354年~紀元前306年?)は楚の遠征により敗北して亡命し、紀元前306年には完全に滅亡する。

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越王勾践剣

越の文化の高さを示す文物として1965年に湖北省荊州市で発掘された越王勾践剣が象徴的である。楚が越を滅ぼした後にこの剣が楚に伝えられ、何らかの事情で楚の王族であった昭固に下賜され、それがそのまま昭固の墳墓に副葬品として埋葬されていたものである。この剣はターコイズ・青水晶・ブラックダイヤモンドで象嵌された銅剣であり、非常に良好な保存状態で発見されている。また、それだけではなく、刀身には鳥虫書(鳥虫篆・鳥虫文とも)と呼ばれる字体で名分が刻まれており、この字体は越・呉・楚で用いられ、とりわけ越の遺物で多く見られる。中原では戦車中心での戦いが主流であったために戈が一般的に用いられていたのに対して、華中以南では河川や水路が多く、戦車は兵器の主流とはなり得ず、歩兵中心であったことから剣が早い時期から主要な武器となっていた。越王勾践剣は当時の越における最高水準の技術を傾けて作られたことが判るのと同時に、地理的条件と豊富な天然資源に恵まれたことから文化の質も自ずと絢爛なものへとなっていった。中原の地味で荘厳さを感じさせる文物とは異なり、鳥虫書に象徴されるように華美であるとともに、文字が書かれる素材にも中原の文化とは異なった斬新さを感じさせる。