百越諸族の興亡

閩越

zou wu zhu
騶無諸

後述の越は中興の祖ともいえる勾践(?~紀元前464年?)が呉を滅ぼして一時期は華南に一大勢力を築いたが、勾践の七世孫の無彊(紀元前354年~紀元前306年?)の時代に楚により紀元前306年に滅ぼされてしまう。無彊は逃亡したとも殺害したともされるが、生き残った越の王族が海路にて閩中(現在の福建省)に逃れて現地の越族と共同で閩越を打ち立てた。紀元前306年~紀元前110年に存在したとされるものの、秦代までの閩越王の詳細については伝わっていない。秦末に閩越王の騶無諸(生没年不詳)が中国統一を果たした始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)により、閩越王の王位を廃する代わりに君長の称号を与えた。始皇帝は中国統一後に閩越後に派兵し、翌307年には閩中郡を設置するが、閩越人の統治が容易でないことから他の郡県制を敷いた地域とは異なり、騶無諸に委託統治するという形式になっていた。とはいえ、閩越一帯にも影響力を強めていきたいという始皇帝の思惑もあり、現在の浙江省北部・安徽省・江西省へ積極的に移民と入植を進めていった。

始皇帝が死去すると、紀元前209年に陳勝・呉広の乱が発生し、各地に及んでいた秦の勢力にも大きな影響を与える。これを機と見た騶無諸は中原に出兵して反乱に参加するなどして秦を攻撃している。乱が沈静化して間もなく、元々この反乱に加わっていた項羽(紀元前232年~紀元前202年)と劉邦(紀元前247年~紀元前195年)との間で覇権争いが起きると、騶無諸は劉邦を支援する形で項羽軍を攻撃するなど漢帝国の樹立に一定の貢献をしている。楚漢戦争が終結すると、漢の皇帝となった劉邦は紀元前202年に漢への功績により騶無諸を閩越王に封じている。騶無諸は秦代および漢代に現在の福建省武夷山市に面積480,000平方メートルに及ぶ巨大な閩越王城を築くにまで至り、中原の文化を享受しつつも百越由来の文化・習慣・風俗・宗教・芸術が残り、独自の閩越文化圏を形成していった。

騶無諸の死後には、北方の東甌や南方の南越を攻略するなど華南では一定の勢力を維持していた。紀元前154年に漢王室に連なる諸侯王による呉楚七国の乱が勃発すると、反乱軍勢力に加入するよう要請はあったものの閩越が直接的にこれに介入することはなく、この乱が間もなく鎮圧されると首謀者である劉濞(紀元前215年~紀元前154年)の子劉駒(生没年不詳)が閩越に逃亡した。その後、劉駒の挑発により、閩越および東甌に內訌が発生したことがきっかけで、紀元前138年に閩越の君主騶郢(?~紀元前135年)が東甌を攻略し、東甌王の騶貞復(生没年不詳)が戦乱の中で死亡する。漢の七代皇帝の武帝(紀元前156年~紀元前87年)は中大夫の荘助(?~紀元前122年)を会稽より派兵させ、東甌を支援したことで、閩越は一旦撤兵を行う。

紀元前135年に騶郢が南越に侵攻すると、南越から救援を求められた武帝は自ら出兵して騶郢を討つことに成功し、武帝は丑(繇君、生没年不詳)を閩越の新たな君主として擁立する。その一方で閩越の貴族から支持を受けていた余善(?~紀元前110年)に「武帝」と刻まれた玉璽をもって東越王を自称し、反漢へと転じた。当時漢の国力が最も安定していた時期であり、匈奴遠征で一定の成果を収めていた後であったために閩越に十分な戦力を投入することができ、繇王居股(生没年不詳)や閩越の貴族であった呉陽(生没年不詳)と敖(生没年不詳)らによる政治工作で内部から崩壊させて、閩越は紀元前110年に滅亡した。

東甌

zou yang
騶揺

閩越同様に越の後継勢力であったのが東甌であるとされる。越王勾践(?~紀元前464年?)が呉を打ち破った際に、紀元前472年にその子弟に分封した地域のひとつが東甌の起源であったとされる。越滅亡後に長江下流の江南沿岸地域の温州一帯に逃れた越の王室が現地の百越である甌人と次第に融合していって、甌越族を形成していった。越の王族ということで、閩越同様に勾践の後裔を自称しており、両者は越の正当性を巡ってしばしば衝突していたとされる。秦より騶無諸が君長の号を下賜されるのと同時期に東甌の首長であった騶揺(生没年不詳)は東甌の君長の称号を与えられる。閩中郡が設置されて一時的に政権としての東甌は消滅するが、紀元前209年に起きた陳勝・呉広の乱に乗じて反秦に転じた鄱陽令の呉芮(?~紀元前202年)を支援する形で騶無諸とともに騶揺が反秦勢力に加わる。秦が滅亡すると、項羽により呉芮は衡山王に封ぜられる一方で東甌はその勢力を恐れられて騶揺は都尉(郡の軍事を司る役職)を与えられるのみであった。これが要因となって項羽・劉邦の覇権争いにおいては騶揺は劉邦を支援し、漢の建国に大きく寄与した。

紀元前200年に騶揺は海陽斉信侯に封じられ、続く紀元前191年に漢代二代皇帝の恵帝(紀元前213年?~紀元前188年)から建国の恩賞として騶揺に東甌王の称号を与え、騶揺は東甌(現在の浙江省温州市)に都を定めて東甌国を建国した。紀元前154年に呉楚七国の乱が勃発すると、東甌はこれに呼応する形で長江まで出兵して南京に駐屯している。間もなく反乱軍が瓦解すると首謀者である劉濞が旧知の縁を頼って東甌に亡命するも、東甌王の放った刺客により命を落とすこととなる。この時の因縁で閩越に逃れた劉濞の子である劉駒が閩越王騶郢をそそのかして東甌への出兵を進め、この混乱の最中で東甌王の騶貞復で死亡するも、武帝の派遣軍により閩越の侵攻は一時的に止まる。その後、騶貞復の弟である騶望が後を継いで東甌王となるが、再び閩越の圧力を受けてこれに抵抗することができず、騶望は一族約四万人を引き連れ北上して江淮一帯(長江下流域および淮下流域)の廬江(安徽省六安市)に移住して、武帝より広安侯に封じられる。国としての東甌自体はこれにより消滅するが、甌越人は故地に留まるか、もしくは戦乱を避けて周辺各地に散らばっていった。

西甌

dong son drum
銅鼓(ドンソンドラム)

百越の中で甌越または甌人と呼ばれた集団は、現在の浙江省温州市近辺に相当する甌江および霊江より東に住む南方の異民族を指していたとされる。その一方で、現在の海南島(漢代に珠崖郡と儋耳群が置かれた)を含めた嶺南以南の地域周辺にいたとされる民族も甌越と呼ばれていた(恐らくは両者を混同していたものと思われるが、広く分布する甌越のうち浙江省周辺にいたものを東甌と定義していたとの説もある)。

西甌と呼ばれた民族集団は後者であり、班固(32年~94年)の『漢書』「地理志」には「蛮夷中、西有西甌、其衆半羸、南面称王。蛮夷の中、西に西甌あり、その衆半羸なり、南面して王を称す)」とある他、西晋・東晋の郭璞(276年~324年)による『山海経』の注にも「甌在閩海中、鬱林郡為西甌。甌は閩海中に在り、鬱林郡は西甌為り)」とあり、古来よりその存在は認識されていた。嶺南地方で現在の広東省西部、広西チワン族自治区、およびベトナム北部に紀元前3世紀以前から定住していたとされ、とりわけ現在の広西チワン族自治区の玉林市・貴港市・梧州市・賀州市に相当する地域に居住していた。彼らは短髪で全身に入れ墨を入れる他、歯を黒くする習俗があったとされる。また、近接する雒越と呼ばれた人々は水田を営む農耕社会を形成しており、広東省南西部・広西省南部・ベトナム北部一帯に広く居住していたことから、玉林市に住んでいた西甌と混同もしくは同一視もされていたようである。雒越および後述の文郎国は周辺の他百越文化圏と比べて後発ながらも青銅器鋳造技術の発達したドンソン文化の担い手とされ、ドンソン文化自体は紀元前11世紀頃から紀元前1世紀まで続いた。ドンソン文化の文物として高さ1メートル、重さ100キロに及ぶ通称「ドンソンドラム」が有名である。

an yang wang
ハノイ市内にある安陽王の像

ベトナム側の『大越史記全書』や『欽定越史通鑑綱目』といった史料によると、元々文郎国(ヴァンランこく)と呼ばれる王国があったが、紀元前258年に第十八代国王の雄璿王(フン・ドェ・ヴォン)の治世に四川省にあったとされる古蜀の第十二代国王の蘆子霸王の王子であった蜀泮(開明泮、?~紀元前208年)が率いる西甌によって併合されたという。文郎国は雄璿王が軍備をおろそかにしていたために当時南征を進めていた秦軍の侵攻を防ぎきれず、北部に秦軍の駐屯を許す一方で、文郎人と共存していた西甌や甌雒は抵抗するか支配を逃れていた。そこに流浪の末に四川地方すなわち蜀よりベトナムに到った蜀泮を指導者として秦軍に徹底抗戦し、秦軍の屠睢(?~紀元前214年)を破って秦軍を撤退させることに成功する。

これにより、蜀泮は雄璿王より禅譲を受け、中国南部およびベトナム北部にいた甌越=西甌と南のベトナム北部のホンハ(紅河)デルタにいた雒越を統合し、国号を甌雒(または甌貉や甌駱とも)とした国家を建国する。史実として甌雒がベトナム最古の王朝であり、蜀泮は安陽王と称して現在のハノイから北に約16km離れた封渓(フォンケー)に都を置いた。封渓は現在のハノイ市に存在するドンアイン(東英)県コーロア(古螺)社であり、大小の河川に囲まれたデルタ地帯に位置していることから交通の要衝で栄えただけでなく、当時としてはベトナムでも最大の人口を有していたとされる。

蜀泮は秦軍を一度は撃退できたものの、再び秦の侵攻があるものと考えて封渓にコーロア城(古螺城)を築いて防備を行う。近隣のホアン川とカー沼を取り込んだ城塞のその姿が巻貝に似ておりタニシ城(螺城)と呼んだことが地名の由来となっている。しかし、紀元前207年に秦の始皇帝の死去と同時に中国国内では反乱軍が各地に蜂起し、この混乱に乗じて南征軍を指揮していた将軍の趙佗(紀元前257年~紀元前137年)は独立して番禺(現在の広東省広州市番禺区)を拠点とした南越を紀元前207年に建国する。当初、甌雒は南越からの侵攻を受けたものの、撃退したことにより南越と講和を結び、蜀泮の娘・媚珠と趙佗の長子・趙仲始が婚姻を進める。これにより表面的には緊張関係はいったんは緩和して両国は一度は停戦するが、その後講和が決裂したことで再び交戦状態となり紀元前207年頃に蜀泮は戦死したとされる。

また、甌雒の首長として「譯吁宋」の名が劉安(紀元前179年~紀元前122年)が記した『淮南子』に見られ、秦の将軍屠睢に打ち取られたという記事がある他、漢が南越を紀元前112年に滅ぼした後に朝廷に従わない勢力である「甌雒人」の西于王を討伐したという記事が『漢書』に見られる。譯吁宋と蜀泮との関係は不明であるが(おそらく無関係であると推測される)、西于王についてはそれ自体が南越が甌雒に下賜した称号であり蜀泮の末裔ではないかと指摘する意見もある。