楚について
楚の起源
楚は現在の湖北省・湖南省にあった王権で、周の建国からほどなくして周の史書に存在が確認できることから紀元前11世紀頃から紀元前223年に秦に滅ぼされるまでの約800年間存在したとされる。黄河流域の中原とは異なる文明を持ち、長江最大の支流である漢水を支流として江漢平原に発達した独自の文化圏であり、春秋戦国時代の史料からは中原諸国とは異なる固有の文化・習俗があったことが確認できる。

『史記』では楚の先祖は黄帝・帝嚳・堯・舜と並んで五帝のひとりに数えられる顓頊としており(同時に秦と趙の先祖であるともしている)。ただ、史学・考古学的に楚の民族的分類はいまだ定説を得るにいたっておらず、河南省から山東省南部に分布していた東夷が建国したとする北来説と、湖南省や貴州省に点在するミャオ族の祖先にあたる長江文明由来の民族が建国したとする土着説がある。近年の楚墓発掘の進展により王侯庶民問わずに埋葬される際に中国の伝統的な北向きではなく南向きとしていることから土着説が有力になりつつある。
「楚」と言う字は「林+疋」からなり、言葉としては「疎(まばらの粗朶=自生する雑木や雑草)」と同系である。つまり、楚とは元はまばらに灌木の生えた叢林(ブッシュ)を指す。華中の漢口(現在の武漢市周辺地域)は漢水と長江中流の潤す地域は比較的湿度が高く、気候が温暖である。この地方に生い茂るブッシュを焼いて、焼き畑耕作を営む原住民が建てたのがこの楚の国であった。この人々を周人は「荊蛮」と呼んだ。荊蛮の地は、東方に伸びて淮水に接するため、淮水のほとりにいた淮夷とも恐らくは縁の繋がる部族であったと思われる。

荊蛮は火をもって野や林を焼くために、火の神である祝融をまつる風習があった。加えて、楚の酋長は代々氏に「羋」、姓に「熊」の字を冠しており(楚の始祖も鬻熊という名である)、「熊」とは「火の獣」である。鬻熊の曽孫である熊繹(?~紀元前1006年)には周の成王より子爵として丹陽(河南省析川)に封ぜられる。第9代王の熊渠(生没年不詳)が湖北省中部と南部に広がる江漢平原を平定し、東は長江下流の揚越の地まで勢力を拡大するまでに至った。『史記』「楚世家」では熊渠は「我蛮夷也。不与中国之号謚。(我は蛮夷なり。中国の号謚に与らず)」と述べ、楚が明らかに中原とは文化風習を異にする独立した存在であることを物語っている。時代は下って、初めて王号を自称した第21代の武王(?~紀元前690年)も「我蛮夷也。今諸侯皆為叛相侵、或相殺。我有敝甲、欲以観中国之政、請王室尊吾号。(我は蛮夷なり。今諸侯皆叛し、相侵し、或いは相殺す。我に敝甲有り、もって中国の政を観んと欲す。王室に吾が号を尊くせんことを請う)」と述べたとされ、周の王室の衰退に反応して各地の諸侯が覇を競うようになると楚も中原各国と比肩できる独立国家と自認するようになった。以後、楚は急速にその勢力を伸ばしていき、華中に一大勢力圏を築いていった。春秋五覇のひとりであるとともに楚随一の名君とされる荘王(?~紀元前591年)は国力を増強しながら、周辺諸国を制圧して洛陽郊外まで兵を進めるまでになっていった。この時の周の使者との一連のやりとりが「鼎の軽重を問う」の故事の由来である。第40代の威王(?~紀元前329年)の治世である紀元前334年には楚に侵攻した越を撃退しただけではなく、これを滅ぼした。威王およびその父である宣王(?~紀元前340年)の時代が楚の最盛期とされ、戦国末期には東の斉、西北の秦に並ぶ強国として残ったが、他国は実力本位の人材登用により国政改革を断行する反面で、世襲による官位を独占した貴族制度やこれに起因する権力抗争があったことにより、魏から亡命してきた呉起(紀元前440年?~紀元前381年)を登用するも政治改革に失敗し、ついには紀元前223年に秦によって滅ぼされてしまう。
楚の文化


『楚辞』に代表されるように、華北の中原とは異なる自由奔放かつ情熱にあふれた南方独特の文化が楚には花開き、とりわけ春秋戦国の中でもシャーマニズム的な要素が強く文化に反映されていた。「人物龍鳳帛画」「人物御龍帛画」「鎮墓獣」といった文物が副葬品として楚墓から発見されているが、それらは他の列国には見られない独自の龍・鳳凰信仰や動物信仰があったとされる。宗教観としても、楚人は自身を東君と呼ばれた太陽神と火の神・祝融の後裔と信じ、太陽と火を象徴する色を赤としており、楚では赤色が尊ばれたとしている。『墨子』「公孟」に「楚荘王鮮冠組纓、絳衣博袍。(楚の荘王は鮮冠組纓にして、絳衣博袍なり)」とあり、「絳衣」とは鮮やかな赤色の衣を指していることから分かるように赤は神聖にして高貴さを示す色であった。

この他、文化的特徴として漆を多用していたことが分かっている。食器など木製品だけではなく、皮革・竹・金属・陶器・絹・麻といった材質にも漆塗りを施しており、漆器の彫刻や絵柄には宗教をモチーフとしたものでなく、楚人の日常生活を題材としている。また、周に代表されるような青銅器文明とは異なり、石器と銅器を併用していた銅器時代に属する文明であり、楚式鼎とも呼べる鼎や鐘といった青銅器も数多く出土している。
しかし、楚は必ずしも中原に対峙していた文明圏であったというわけではなく、中原様式の建築物や埋蔵品も確認されている。1993年に湖北省荊門市の郭店一号楚墓から大量に発掘された竹簡群(いわゆる「郭店楚簡」)からはわずかに『老子』の竹簡が見つかった他、『周礼』をはじめとする儒家の書が見つかっており、貴族の子弟は中原諸国と同等の教育が行われていたものと考えられる。この他、『孟子』「滕文公章句下」にも「有楚大夫於此、欲其子之齊語也、則使齊人傳諸、使楚人傳諸、曰、使齊人傳之。(此に楚の大夫有りて、その子の斉語せんことを欲するや、則ち斉人をして諸に傳たらしめんか。楚人をして諸に傳たらしめんか。曰く、斉人をして諸に傳たらしめん)」とあるように、楚の貴族はその子弟に積極的に中原および他地方の言語を学ばせていたことが窺い知れる。
楚の言語
古楚語
楚の言語については、孟子が楚出身の思想家許行を「南蠻鴃舌之人」と呼んで蔑んだり、『春秋左氏伝』「宣公四年」に楚の宰相・闘穀於菟の名前のうち穀は乳で於菟は虎と示す記事があることから、呉や越と同様に中原のいわゆる雅語とは異なるものと春秋戦国時代にはすでに認識されていた。
『春秋左氏伝』「荘公二十八年」に「衆車入自純門、及逵市、縣門不発、楚言而出。(衆車純門自り入り、逵市に及ぶ。縣門に発じず、楚言して出ず)」で「楚言」と見えるのが楚の言語ついて示した記述の初出であり、これは古楚語と定義され、湖北・湖南・長江中流域で用いられていたと考えられ、現在の湘語のルーツであるとされている。この記事で「楚言」とあるのは鄭を攻めた際に鄭の密偵に作戦を漏洩させないために楚語で全て軍令を発したという内容であるが、これは裏を返せば楚語は楚の人間でなければまず理解できないものであったことを示している。
秦帝国崩壊後に覇権をめぐって争った項羽と劉邦についても、項羽の軍が劉邦率いる漢軍に垓下の戦いで包囲された際に四方を囲っていた漢軍から楚の歌が聞こえてきたことで多くの楚出身兵士が劉邦軍に加わっているに項羽が驚き、その愛人である虞美人に贈った「垓下歌(垓下の歌)」には『楚辞』と似た特徴が見られる。劉邦も項羽との楚漢戦争に勝利し、故郷の沛(現在の江蘇省徐州市)を通った際に酒宴を開いており、この時に歌った「大風歌」も『楚辞』に似ている。なお、項羽は代々楚の将軍を務めた家系であり(祖父は秦に徹底抗戦した項燕〔生没年不詳~紀元前223年〕で、その末子の項梁〔生没年不詳~紀元前208年〕は項羽の養父)、劉邦の出身地は春秋戦国時代に宋が県を置いたのちに斉・楚・魏がその支配権を巡って争っており秦に接収されるまで楚の領地であった。
【垓下歌(垓下の歌)】
力拔山兮氣蓋世。時不利兮騅不逝。騅不逝兮可柰何。虞兮虞兮柰若何。
力山を抜き気世を蓋(おお)ふ、。時利あらずして騅逝かず。 騅逝かざるを奈何すべき。 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん。
【大風歌】
大風起兮雲飛揚。威加海内兮歸故鄕。安得猛士兮守四方。
大風起きて雲飛揚す。威は海内に加わりて故鄕に帰る。安(いづ)くにか猛士を得て四方を守らしめん。
文献史料の制約から古楚語については実際にどのような言語であったかを検証することは困難となっており、『楚辞』や楚と同時代に他国で記された史書など現存する資料から類推するほかない。遅くとも春秋時代までには古楚語が形成されていたとされ、その成立過程で百越系の言語、ミャオ族・ヤオ族系の言語、タイ語系の言語もしくはベトナム語系の言語と接触していた可能性がある。
先秦の文献に残る楚語系の単語として、闘穀於菟が就いていた宰相職に相当する「令尹」、将軍に相当する「莫敖」、書庫や記録所を意味する「蘭台」(後にこの単語は漢代にも引き継がれる)、神官や巫者を指していた「巫咸」といった名詞があったことが確認されている。固有名詞として楚の首都「郢」や同じく楚の都市である「鄢」も楚語由来の語であるとされている。それ以外にも『楚辞』には固有の神の名として「湘君」(湘水の神)や「河伯」(黄河の神)があり、地名では「洞庭」(洞庭湖)や「九嶷山」(湖南省南部の永州市に位置する山)が楚語系統の単語、一般名詞として「蘭」(らん)・「芷」(し)・「蓀」(そん)といった香草の名称も確認できる。
また、戦国七雄の一強として楚の国力は隆盛したために多くの移民が湖南地方に移り住んだことにより古楚語がより広い地域に伝播していき、秦による中国統一後も、秦が楚の故地に長沙郡と黔中郡を置いたことが、古楚語の拡大に大きく作用していった。
呉は越によって滅ぼされ、なおかつその越は楚によって滅ぼされているが、古楚語と古呉語は比較的近縁の言語だったようで、現代でも湘語と呉語は「発音は同じだが声調が違うだけ(これを「腔同調不同」と呼ぶ)」といった共通点があると論じられることがある。隋唐までは呉楚語というひとくくりで一方言と見なされており(揚雄の『方言』では楚と南楚とで分けて両者の方言を論じている)、陸法言(生没年不詳)が記した中国初の韻書『切韻』の序で「呉楚、則時傷軽浅、燕趙、則多涉濁、 秦隴、則去声為入、梁益、則平声似去。(呉楚は則ち時として軽浅に傷〔いた〕められ、燕趙は則ち渉濁多く、秦隴は則ち去声入と為り、梁益は則ち去声去に似たり。)」と記しているように呉と楚の明確かつ厳格な区分をする必要がないほど同質性が高かったようである。その後、隋唐から宋代にかけて呉語と楚語が分離し、南部すなわち現在の湖南に相当する地域の楚語が中古湘語となり、これが現在の湘語の直接的な祖語となった。反対に北部すなわち現在の湖北の楚語は西南官話へと変化していった。
南楚語
前漢の揚雄著『方言』には古楚語の系統として、南楚江湘と呼ばれた現在の湖北省・湖南省に相当する地域で南楚語が話されていたとしている。呉語とも何らかの関係があったのではないかと指摘され、『史記』「貨殖列伝」には「衡山、九江、江南、豫章、長沙、是南楚也。(衡山、九江、江南、豫章、長沙、はこれ南楚なり)」とあるように湖北・湖南だけではなく、江西省・広東省・広西チワン族自治区の一部も包括しているという解釈もあり、現地のいわゆる荊蛮に見なされていた先住民族の言語も吸収することで、古楚語と土着の言語が融合した南楚語が形成されていったとされる。ただし、実際には厳密な言語分類上で南楚語という単一の言語があったというよりは、歴史的・地理的な要因から特定の地域の複数の言語に与えられた便宜的呼称が実態に近いと思われる。
秦漢の時代には長沙を中心にかつて楚と呼ばれた地域は発達していき、現地のミャオ族やヤオ族の祖先にあたる諸先住民が定住するような奥地にまで漢民族は開発を行っていくことで、長沙から離れた遠隔地でも移民の入植により南楚語の使用地域が拡大していった。前漢から一時的に政権を簒奪した新王朝でも長沙郡を「填蛮郡」と改めたことも、当時先住民族の勢力が依然強かったことを示している。加えて、紀元2年から140年まで戦乱により北方からの移民が急増し、長沙郡では人口が23万人から105万人に、零陵郡(現在の湖南省南西部および広西チワン族自治区北東部)では14万から100万までに増加したと言われている。楚の言語は中原の言語の流入により、中原の文語や官話が浸透しつつも、楚語の語彙や音韻は保存していったことで、中原の雅言と混淆した言語へと変化していった。
『方言』において南楚語は例えば「暁(現在の標準中国語の「暁得」)」のように一部の語彙が中原の言語に吸収された事例もあるが、基本的には南楚が現在の湘語の直接的な祖語にあたるとの指摘する学者もおり、南楚語を「古湘語」を呼ぶこともある。研究者によっては、「原湘語」という名称を与えている場合もある。
漢代以降の楚の言語
漢帝国崩壊後、晋を経て南北朝時代にいたるが、『宋書』では南朝梁の劉裕(363年~422年)について作者の沈約(441年~553年)は「史臣曰、高祖雖累葉江南、楚言未変、雅道風流、無聞焉爾。(臣曰く、高祖葉を江南に累〔かさ〕ぬといえども、楚言未だ変ぜず。雅道風流、焉を聞くこと無きのみ)」としており、いわゆる南朝の各王朝は中原王朝の後継政権であると正統性を主張しているが、梁の初代皇帝である劉裕はもっぱら楚語すなわち徐州方言が抜けきれず、専ら中原文化的な素養を見せなかったと評している。また、当時経済の中心であった江南および政治の中心であった荊州・揚州が中華世界の中央であり、その言語が雅言であると述べるとともに、『魏書』に劉裕は項羽の子孫であるという記述があることから、沈約は劉裕の「楚言」を暗に批判したともされる。
漢以降は唐代・五代十国に至っても中原から湖南への移民は続き、中原の言語は楚の故地の言語に影響を与えつつ、かつて楚と呼ばれた地域の言語は中原と異なる独自の特徴を保っていた。唐代の詩人たちもそれについて詩や文章で以下のように表している。
張説(667年~730年)『荆州亭入朝』
「巫山雲雨峽、湘水洞庭波。九辨人猶擯、三秋鴈始過。旃裘吳地盡、髫薦楚言多。不果朝宗願、其如江漢何。」
劉禹錫(772年~842年)『曆陽書事七十韻』
「一夕為湖地、千年列郡名。霸王迷路處、亞父所封城。漢置東南尉、梁分肘腋兵。本吳風俗剽、兼楚語音傖。沸井今無湧、烏江舊有名。…」
李紳(772年~846年)『涉沅瀟』
「…、潮滿江津猿鳥啼、荊夫楚語飛蛮槳。瀟湘島浦無人居、風驚水暗惟鮫魚。行來擊棹獨長歎、問爾精魄何所如。」
温庭筠(817年?~866年?)『焼歌』
「鄰翁能楚言、倚插欲潸然。自言楚越俗、焼畲為早田。」
儲光羲(707年~763年)『安宜園林獻高使君』
「…、楚言滿鄰里、雁叫喧池台。…」
宋之問(656年—712年)『初宿淮口』
「孤舟汴河水、去国情無已。晚泊投楚鄉、明月清淮裏。汴河東瀉路窮茲、洛陽西顧日増悲。夜聞楚歌思欲斷、況值淮南木落時。 」
孫逖(696年~761年)『淮陰夜宿』
「永夕臥煙塘、蕭條天一方。秋風淮水落、寒夜楚歌長。宿莽非中土、鱸魚豈我鄉。孤舟行已倦、南越尚茫茫。 」
宋代に至っても、やはり独自性を持った言語として楚の方言は認識されており、同様に宋代の文人たちも自身の詩文にそれを伝えている。
釈宝曇(1129~1179年)『泊分水』
「櫓声伊軋訴東風、楚語呉歌落枕中。夜半潮頭随月上、客帆和夢各西東。」
蘇轍(1039年~1112年)『竹枝歌』
「舟行千里不至楚、忽聞竹枝皆楚語。楚言啁哳安可分、江中明月多風露。」
「帰去来兮、吾帰何処、万里家在岷峨。百年強半、来日苦無多。見黄州再閏、児童尽楚語語歌。」
黄伯思(1079年~1118年)
「皆書楚語、作楚聲、紀楚地、名楚物」
唐宋の時期は楚の地域が中央から離れていたために比較的保守的な音韻体系が保存され、唐宋代の各種記録では地域差を意識して楚の方言的特徴を持つ語が多数記されている。この時代に後の「湘語」の原型が誕生していったと推定される。明清代には湖南地域では商業活動や軍事が活発化したことで官話との接触が増加し、長沙などの都市部では官話の影響を受けたことで発音や文法に変化が生じ、これが官話化した湘語すなわち後の「新湘語」であり、その一方で農村部や山地では官話の古語や楚語の語彙だけでなく古い文法的特徴を残した「老湘語」となっていった。
楚系文字
秦の始皇帝が中国統一を果たす以前は斉・魏・燕・韓・趙・楚といった列国では各地の方言があったのみならず、漢字が各国で独自で創生されていた。秦が周の故地をそのまま接収して周の文化ひいては漢字をそのまま引き継いでいるのに対して、楚をはじめとした諸国では各国で誕生した文化を反映させた独特の文字が生み出され、それらは「六国文字」と呼ばれる(または「六国古文」とも呼ぶ)。書写材料は青銅器・貨幣・帛書・璽印・兵器・玉器・陶文・木漆器・封泥など多岐に渡るが、中でも楚簡と呼ばれる大量の竹簡による文書群が過去30年でかつてない規模で発見されるようになり、現在中国において古文字学の中心となっている。

楚簡に記されている記述は多岐にわたり、①遣策(墓主の副葬品の品名と数量をリスト) ②卜筮祭祷・日書(占いの文書) ③訴訟案件に関する記録や司法文書 ④儒家・道家・墨家系文献や経書(『詩経』『書経』『易経』など)や歴史書などの典籍に大分される。
現在公開されている楚簡としては、包山楚簡(1986年に湖北省で出土)、郭店楚簡(1992年に湖北省で出土)、上博楚簡(1994年に骨董市場で見つかったもの)、清華簡(2008年に清華大学卒業生より寄贈された骨董市場の流通品)がある。楚簡自体の出土は1950年代から長沙楚墓で出土した五里牌竹簡(1951年発見)、江陵望山楚墓から「望山竹簡」(1965年発見)、河南信陽長台関楚墓から「信陽竹簡」(1957年発見)、馬王堆漢墓から膨大な帛書群(1973年発見)、秦墓から「雲夢睡虎地秦簡」(1975年)などがあったが、近年の研究の進展により不明な文字の解読ができるようになり、文章字体の意味が分かるようなっただけではなく、これまで頼るべき資料の少なかった楚がどのような国であったのかが判明しつつある。
楚で使用されていた文字は必ずしも中原および周辺国と異なっていたというわけではなく、『説文解字』所収の小篆や古文と共通するものが少なくなく、楚系文字がすべて難解かつ特殊な独自文字であったわけではない。ただ、「
」(「吾」に相当する語)、「
」(「信」に相当する語)、「
」「
」(家畜を意味する「牲」に相当する語)といった現代の漢字には存在しないものも含まれている。
また、その他の大きな特徴として楚系文字の規範性は秦代および現代を含めた以後の歴史における漢字とは異なって比較的緩やかなものであり、例えば「静」を表す語には「青」「倩」「寈」「束」、「清」を表す語には「青」というように代替字的な用法が存在した。この他に「小」と「少」の区別が楚ではなかったとされる。ただし、「清」や「静」の代替字として音が近い「井」「生」「眚」が用いられることはなかった。「静」という語は存在したが、それは「争」を意味する語であった。また、楚には「物」という字が存在しなかったとされ、「物」を示すのに「勿」の字を用いていた。
『楚辞』に収められている「漁夫」は
「滄浪之水清兮、可以濯吾纓。滄浪之水濁兮、可以濯吾足。」
(滄浪の水清〔す〕まば、以て吾が纓を濯〔あら〕うべし。滄浪の水濁らば、以て吾が足を濯うべし。)
と伝えられているが、これまでに出土した楚簡から実際に楚で伝わっていた原文が復元可能であり、以下のように復元できるとされている。
「倉良之水青氏、可以濯
纓。倉良之水濁氏、可以翟![]()
足。」
楚系文字の通用範囲は楚のみならず、楚に滅ぼされた国や楚文化の影響を受けることが比較的深かった国(曽・呉・徐・蔡・宋など)でも用いられていることが分かっている。また、「
」は楚に限定されて用いられたのではなく、晋でも姓字(複姓)で用いられていたことが判明しており、あくまで用字習慣の違いにすぎないことも分かっている(同様に秦で用いられていた「吾」は斉や晋では「
」となるが、地名や人名(複姓)で「吾」が用いられていたことが証明されている)。
鳥虫書と呼ばれた呉・越・徐・蔡・宋といった中国大陸南方で用いられた書体が楚でも使用されていた一方で、楚系文字は書法的特徴として曲線を主体とした線を多用しており、字形的特徴としても殷代の甲骨文や周代の金文と比較すると文字の使用層が増えたことにより文字数が増えただけでなく俗体が増えた。それ以外の特徴として、
- 合文: 二文字を一文字にまとめる(「之」と「所」を合わせて一字にするなど)
- 重文: 同一の文字を連続で二回読ませる(「節」の右下に「二」を加えて「節節」と読ませるなど)
- 筆画の省略: 「孫」の字で旁の「系」を「么」にするなど
- 構成要素の省略: 文字本来の構成要素そのものを省略する(「箕」を「亓」とするなど)
- 省略記号: 「爲」の「灬」の部分を「二」にするなど、複雑な文字の一部を省略して代替の文字(記号)を置く
- 筆画の共有: 「名」という文字を書く際に、「口」を「月」に重ねることで画数を一部省略する
といった筆写の際に画数やスペースを合理化する手法も考案されている。反対に飾筆(「上」の下に「一」を加えるなど)・表意的偏旁の付加(「鬼」に「示」を加えるなど)・表音的偏旁の付加(「鹿」の字に発音字の「录」を加えるなど)のような文字の煩雑化も確認されている。
また、現代と異なる文字と音の配当関係が存在しており、
と「吾」、
と「信」のように音の近似性を媒介とした読み替え=『説文解字』でいうところの仮借も見られる。同様の用例として「唯」を「雖」として、「可」を「何」や「奇」として用い、楚においては文字の配当関係(これを用字法と呼ぶ)は必ずしも厳密な一対一ではなく、その規範性は現代と比べるとかなり緩やかであったようである。
『論語』や『老子』のように現代までに伝写される過程で本来存在しなかった文言が混入したり、文字が避諱や誤解によって書き換えられたりするなどして、本来の形を留めていないのに対して、楚簡は書写当時の生きた文法や発音を保存していることもあり、出土地と書写年代を確定できればより精緻な史的研究が可能になった。例えば、上古音研究において従来の『詩経』や『説文解字』を用いた周代から漢代までの幅広い年代での言語音系を指していたが、楚簡に見られる通仮字(音が同じ漢字を字義を同じと見做して転用したもの)から戦国中後期の楚国に限定してその音韻現象を検証できるようになった。例えば、「好」は上博楚簡で確認できる『礼記』「緇衣」では「
」の字が用いられており、それまで「好」の音は中古音が暁母x-であることから上古音でも軟口蓋音*x- (日本語のハ行の音に近い)と考えられていたが、上博楚簡の発見により戦国中後期の楚では「好」と「
」が近かったことが判明した。「
」は諧声系列に娘母 *nj- の「紐(ジュウ)」や日母 *n- 「粈(ジュウ)」があることから、本来は日本語のナ行の音に近い鼻音声母*n-を有するものを推測されていたが、楚簡における「好」と「
」の関係については当時の楚では「好」は鼻音*n-に相当する声母を持っていたとの想定では、「好」は無声鼻声の *hn- (ナ行の発音)であったとされる。これに従えば、後代の発音では *x- に音が変化したと考えられる。
さらに楚簡では「象形」「指示」「形声」「会意」「仮借」と合わせて漢字の構造および運用の分類で六書のひとつに上げられる「転注」の概念について解明する手がかりを提供している。「転注」については『説文解字』に「建類一首、同意相受。考老是也。(類を建てること一首、同意相い受く。考老これなり)」とあり、その名称も「建類一首、同意相受」という定義も例示の「考老」も意味するところが長年不詳であり、「転注」がどのような文字運用の原理なのか古来より諸説紛々で「同じ部首で意味上関連がある文字を指す」「互いに同種の意味を持つ字と字の関係である」「ある文字に義符や声符を加えて新しい文字を加えること」など様々な説が挙げられてきた。上博楚簡のひとつである「柬大王泊旱」では「滄」の字が確認され、「汗」との入れ替えが起きている。元々は「滄」は「寒」に読み替えられたが、訓読と呼ばれる漢字相互間における意味を媒介とした読み替え現象でさらに音の近い「汗」になったとされる。この他にも楚簡には用例として「卉」を「草」に、「坐」を「跪」に、「視」を「見」に、「淵」を「深」に読み替える訓読が確認できるが、このような文字の借用現象が「転注」の本質であり、字音による文字借用現象である「仮借」と対をなしているとの指摘がある。「」斉鬻楚宣王熊につ鬻熊いて熊我蠻夷也。今諸侯皆為叛相侵,或相殺。我有敝甲,欲以觀中國之政,請王室尊吾號。渠熊渠
