南越
秦の百越征服事業
紀元前221年に春秋戦国時代の戦乱を収束させて中国統一を果たした秦の始皇帝は古来より中原を脅かしていた北方の匈奴の遠征を開始し、秦の将軍蒙恬(?~紀元前210年)により紀元前215年頃には陝西省・甘粛省・寧夏回族自治区・山西省・内モンゴル自治区に跨るオルドス地方から匈奴を駆逐することに成功した。そして、紀元前223年に楚を滅ぼしたことで秦は南方への領土拡張が可能となり、百越が群居する華南および嶺南に向けて兵を発する。目的としては長江以南の温暖かつ肥沃な土地で得られる犀角・象牙・玳瑁・翡翠・真珠・珊瑚といった華北では入手が困難な南方の特産品を独占するためであり、実際に投入した兵力は匈奴遠征よりも多かったという。
紀元前219年に第一次遠征として50万の兵士を五分割して南進し、屠睢が総司令官を、任囂(?~紀元前206年)が副司令官を務め、浙江省の甌越や福建省の閩越を平定して同地を秦の領地に接収していったが、屠睢が西甌との戦いで戦死したばかりではなく、1万人の兵士が壊滅する事態に陥る。始皇帝も嶺南征服を諦めきれず、紀元前214年には揚子江支流の湘江と広西チワン族自治区の桂林市を流れる漓江を結ぶ全長33.1キロの運河であるる霊渠を切り開いたことで、南方戦線への大量の物資輸送が可能となった。これは結果的に南海に注ぐ珠江の支流である西江への接続を実現させ、兵力の輸送だけではなく、秦を南シナ海を通じた物流網に乗せる狙いもあった。これにより紀元前214年中には趙佗を総司令官として百越諸族を制圧して福州・桂林・広東・広西・ベトナム北部といった主要地域を奪取していった。征服地には南海郡(現在の広東省広州市)・桂林郡(現在の広西チワン族自治区桂林市)・象郡(現在のベトナム北部および広西チワン族自治区)といった三郡を設置して、秦が施行した郡県制による全国統治の機構のひとつとして中華世界に組み込んでいった。秦は逃亡した罪人(逋亡人)・貧家出身の入り婿(贅壻)・商人を積極的に入植させただけでなく、支配した百越の地域に秦の筆記法と中原の言語を導入しようと中国化を推し進めていった。
南越の独立

紀元前210年に始皇帝が病没すると、陳勝・呉広の乱をきっかけに中国では反秦の狼煙が各地であがる。そのような中で屠睢・任囂の跡を継いだ趙佗は百越征服戦争を続けて紀元前208年には甌雒領を交趾郡と九真郡に分割した。紀元前206年に最終的に秦が滅亡すると、南海郡・桂林郡・象郡を統治していた趙佗は紀元前203年に桂林郡・象郡の二郡を併合して、突如として国号を「南越」をした独立国家を樹立する。漢(前漢)建国のまだ混乱が残る時期であったために、趙佗はそれを好機と捉えて閩越や甌越だけではなく、北西に位置する広東省南西部・広西省南部・ベトナム北部一体の駱越も制圧して、一時は漢に対抗できるだけの勢力を保有していた。とはいえ、紀元前196年に劉邦は陸賈(生没年不詳)を南越に派遣して、南越の漢への帰順を説くことに成功し、これにより趙佗は南越王印綬を授かり、南越は漢の冊封体制下に組み込まれた。翌195年に劉邦が崩御し、その皇后である呂后(紀元前241年~紀元前180年)が権勢を振るようになると、陸賈が朝廷より一時的に下野したこともあり、南越と漢の関係が悪化していった。呂后は南越との国境での物資の往来を止めるなどの措置を行ったため、呉氏長沙国と同盟を組んで南越を攻めようとしていることを事前に察知した趙佗は長沙国に侵攻している。この際に趙佗は自ら「南越武帝」と称して、漢の冊封体制からの離脱を宣言している。これに対して漢は遠征軍を派遣したが、高温多湿な気候のために遠征に失敗する。南越も対抗手段として閩越・甌越(西甌)・駱越を帰属させることで最大の領土を広げた。紀元前179年に呂后が崩ずると、劉邦の第四子である文帝(紀元前203年~紀元前157年)が第五代皇帝に即位し、再び南越の懐柔政策を採り、下野していた陸賈を復職させて交渉の末に南越王として再び漢に帰順させることに成功した。ただし、対外的には「南越王」とはしていたものの、「南越武帝」の称号を使用していた。
趙佗以後の南越

紀元前137年に趙佗が死去すると、長寿であったために実子は皆すでに死没しており、孫の趙眜(紀元前157年~紀元前124年)が南越の第二代の王に即位する。紀元前135年に閩越が南越に侵攻したことで南越の要請を受けて武帝は討伐軍を派遣するが、閩越到着直前に閩越王騶郢が弟の騶余善が一族や大臣と謀って暗殺されたために討伐計画自体は中止となった。武帝は南越に対して以後閩越の監視を命ずるとともに、趙眜と太子趙嬰斉(?~紀元前115年)の入朝を求めた。結果的に趙嬰斉が人質として漢入朝するものの、趙眜は病気を理由に王位につくまでの12年間漢の国都長安を訪れることはなかった。また、1987年には番禺の西北にあたる広東省広州市象崗山で工事中に偶然趙眜の陵墓が発見され、1000点の副葬品が確認されるなど嶺南地方で最大規模の墳墓となっている。なお、この陵墓は一般的に南越王陵墓と呼ばれるようになった。
紀元前124年に趙眜が病没すると、趙嬰斉が長安より戻り第三代王に即位する。趙眜は入朝前に南越ですでに趙建徳(?~紀元前111年)をもうけているが、長安滞在中に邯鄲樛氏の娘との間に趙興(?~紀元前112年)ももうけており、最終的には趙興が趙嬰斉の後継者となり、これが後の南越王室での内紛の遠因となった。
紀元前115年には趙嬰斉が死去したために、まだ幼かった趙興が王位に就き、南越の丞相であった呂嘉と母の邯鄲樛氏が執政していた。ここで漢への帰順を巡って対立が発生し、趙興が呂嘉に殺害されてしまうという事態にまで至る。これを好機と捉えた武帝は南越遠征軍を派遣するものの、紀元前112年に派遣軍の韓千秋(?~紀元前112年)が呂嘉の軍に滅ぼされてしまう。翌紀元前111年には再び派兵し、将軍の路博徳(生没年不詳)と楊僕(生没年不詳)が番禺を攻略し、守備軍に投降勧告を行ったことで多くが投降した他、呂嘉と趙建徳が番禺を脱出して逃亡したものの、追討軍によって捕縛され処刑されてしまう。93年に及んだ南越の治世は武帝による遠征で滅亡し、漢は南越の旧領に南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南・珠厓・儋耳の9郡を設置し、漢による嶺南の直接統治を開始する。
ベトナムにおける北属期

南越の滅亡後、漢による直接支配から呉権(ゴ・クエン、897年~944年)による北ベトナム最初王朝である呉朝を建国するまでの、中華王朝によるベトナム統治時期のことをベトナムでは北属期と呼ぶ。開始時期については趙佗が南越王として北ベトナムの統治を開始した年代を起点とする学説もあるが、一般的には第一次(紀元前111年~紀元39年)・第二次(44年~544年)・第三次(548年~939年)の時代区分を包括したものを指すことが多く、現在のベトナムでは中国諸王朝の支配を受けていた国辱的な期間と扱われている。ただし、この歴史認識とは矛盾する形で、北属期を含めてほぼ伝説上の王朝である文郎国初代王の涇陽王の即位を紀元前2879年として「ベトナム5000年の歴史」といった言い回しがベトナムには存在する。
紀元前111年以降、中華王朝に対して一定の独立を維持していた、もしくは中華王朝に対して反乱を起こして一定の勢力を保っていたものを、現在のベトナムの歴史教育では王朝ないしはそれに準ずる特別な地位を認められた勢力を独立王朝として扱うことがある。例えば、40~43年に北ベトナムの交趾郡で徴姉妹の反乱を起こした徴側(?~43年)と徴弐(?~43年)の姉妹は実質的数年程度の反乱を起こしていたにすぎないがベトナムでは英雄視されている。また、後漢末期に交阯太守に任じられた士燮(137年~226年)は嶺南から北ベトナムにかけて独立政権を樹立しており、漢人にも関わらず北ベトナム現地を発展させた人物として死後も長らく敬愛されてベトナムの正統な王であると伝統的に扱われていたものの、18世紀以降から次第に否定的に評価されるようになった。1945年のベトナム八月革命まで教化者として漢文用教科書には名前が記されていたが、戦後のクオック・グー(フランス人宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロード発案のアルファベットによるローマ字表記)の普及による漢字文化と漢文教育の衰退により、士燮の名前が教科書から見えなくなり、現在のベトナムの教科書からは完全にその名前は削除されている。
以後、中国王朝の交替が繰り返される中、ベトナムでも土豪による反乱もたびたび起こる。184年には交阯刺史の周敞を現地の民衆が刺殺してその暴政を朝廷に訴える事件が起きた他、248年には交州九真郡(現在のベトナム北部のタインホア省)で趙氏貞(226年?~248年?)が三国呉に対して反乱を起こし、548年には李賁(503年~548年)が交州の龍編(現在のベトナム北部のバクニン省)で南朝梁に対する反乱を指導する。

中国で魏晋南北朝時代が終結して隋唐時代となってもなお反乱が頻発し、687年には安南都護府に対して李嗣先と丁建が、722年には驩州(現在のベトナム北部のゲアン省)で梅叔鸞が、766年には馮興・馮駭の兄弟が起きる。846年には四川省・雲南省に勃興したチベット・ビルマ語族系の南詔がベトナムに進出し、一時的に交趾が南詔に占拠されるものの、880年には節度使曽袞が兵士の反乱により安南都護府から追放される。以後は唐の凋落とともにベトナムへの支配的影響力が著しく低下し、906年には初めてベトナム人として土豪の曲承裕(クック・トゥアズー、830年~907年)が節度使の役職に就くが、すでに政治的求心力を失って唐からは半ば黙認されたものであり、唐の没落がベトナムが中国に支配体制から逃れて独立する契機となった。その後、唐滅亡後は五代十国の時代に劉龑(889年~942年)が嶺南およびベトナム北部に南漢を建国し、曲承裕の政権は923年にこの侵攻を受けて壊滅する。931年に曲承裕に仕えていた楊廷芸(ズオン・ディン・ゲ、?~937年)が南漢軍を撃破して節度使を自称するものの、ほどなくして部下の矯公羨(キェウ・コン・ティエン、?~938年)に暗殺される。楊廷芸の跡を継いだ呉権が938年に白藤江の戦い にて南漢軍を破り、翌939年には西甌の都であったコーロア城に都を置いて呉朝を建国した。これが紀元前111年以来約1000年間の中国王朝による支配体制からの独立となり、以後ベトナムでは時代に合わせて中国とは適切な距離を取りながらも1887年にフランスの植民地であるフランス領インドシナに組み込まれるまで独立国家として様々な王朝が存在した。その後、呉権が没すると各地の土豪が割拠して呉朝の支配力が失われていき、最終的に呉朝第四代君主の呉昌熾(生没年不詳)より十二使君と呼ばれた群雄のひとり丁部領(ディン・ボ・リン、924年~979年)が政権を奪取し、丁朝を建国する。丁朝は国号を「大瞿越(ダイコーヴェト)」とし、都をベトナム北部の華閭(ホアルー、現在のニンビン省ホアルー市)に置いた。大瞿越の国号は後続の黎朝や李朝にも用いられたが、1054年に正式な国号を「大越」に改めた。
