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共通語としての「雅言」

春秋戦国時代を生きた儒家の始祖である孔子(紀元前552年?~479年)の言行を記した『論語』「述而篇第七」には以下のような一文がある。
「子所雅言、詩書執禮、皆雅言也。」
(子の雅言するところは、詩、書、執礼、皆雅言す)
孔子は『詩経』を読む時も、『書経』を読む時も、儀式を執り行う時はいずれも「雅言」を用いた。
ここで述べられている「雅言」については古くから様々な解釈があるが、「中華文明の発祥の地とされる黄河下流域を指す中原の正しい発音(周王朝の首都であった洛邑=洛陽の方言を基幹とした言語)」や「当時の何らかの共通語」、もしくは文言が美しい言葉とされた当時において読書音を指すものされている。この他、諸子百家や儒家での教学用言語、周の朝廷における宮廷語、各国の諸侯との外交言語として機能していたと推定される他、『詩経』や『書経』などの古典もある程度は雅言に基づいていたものとされる。
周の方言である雅言すなわち洛邑=洛陽の方言(河洛語)は中央の言語であり、共通言語と位置付けられていくとともに、儒家にとっても権威ある言語すなわち雅言となっていった。雅言とは読んで字の如く、常言(常に言う言葉、普段口にしている言葉)・詩書・法典の正しい読み方の音声が正確な言語という意味でもあり、庶民が話す俗言・俚言に対する雅な言葉を指す。孔子の出身地である魯は現在の山東省に位置していたため、実際には孔子は普段は魯の方言を用い、何らかの儀礼を行う際や竹簡や木簡にしたためられた古典を読む際に「雅言」を使用していたものと考えられる。
周への漢字の導入
殷では漢字はその原形となった甲骨文字が本来は貞人(占いをはじめとした祭祀を司る神官)が神との交信を図るための神秘的な神託文字として五穀豊穣を願う雨乞いや、政治や戦争を占うためだけに用いられた。神との対話を行うための内向きの使い方に限定されており、甲骨文字は河南省安陽市の殷墟周辺で発見されるのがほとんどである。占いに使用されたのは基本的には牛・馬・水牛の骨や亀甲などであったが、過去の発掘調査で人骨が使われた稀有な事例も確認されている。また、なぜ貞人以外が甲骨文字を使わなかったのかは今もなお不明である。


対して、周では人との関係をつなぐ外向きの用途、すなわち契約文・行政文書・許可状などに漢字を利用するようになっていった。例えば、2003年に陝西省眉県で発見された逨盤は周の歴代の王12人(文王・武王・成王・康王・昭王・穆王・共王・懿王・孝王・夷王・厲王・宣王)に仕えた地方勢力の単氏8代にわたる歴史を記したものであるが、そこには「四方の虞林を司り、宮御に用いよ」と周辺の森林を管理して周の王宮の費用とするよう命じるとともに単氏の自治を認める記述があり、周を盟主とする周辺諸国や諸部族との契約を意味するものであった。
漢字はそれ自体が一文字ずつ意味を持っており、現在の中国の方言のように同じ単語でも発音が異なる場合であっても、意味さえ理解しておけば漢字によるコミュニケーションすなわち筆談でもが意思疎通を成立させることができる。周はこのような漢字の特性をうまく利用したとされ、周を盟主として戴いた諸国や諸部族でもやがて独自で漢字を使用していくことになる。雅言とペアで漢字は用いられるようになり、これが後の中国語における漢字との関係性に発展していった。
古典語と文語
古代中国における「古典語」
古典語とは上古から漢代に至るまでの資料に見えている中国語を指すもので、いわゆる古文や文言、すなわち文語と同じものではない。もちろん、中国の文語の根幹をなすものはこの古典語ではあるが、文語は古典語以外の各種要素を多く取り入れて成り立っており、古典語=文語ということはできず、古典語がある程度理解できても一部の文語は理解できないという場合も少なくない。

春秋時代末期から戦国時代にかけて高度に発達・成熟してきた文語は方言の有用な部分を吸収することで豊富な語彙と相当に厳密な文法を持ちつつも共通性のある洗練された書面語となった。漢代の司馬遷『史記』や王充(27年~97年)の『論衡』は、不完全ながらも一種の共通の口語を基礎として、文人による加工を施して贅を省き練り上げられたものである。これがいわゆる日本でも馴染みのある「漢文」でもあり、口語体とは異なる文体を持った「文言文」として現代中国語で定義されているものである。漢代になると古典語としての雅言は字体は変わっても、青銅器では物理的な制約から刻む文字数を減らす、木簡・竹簡・布帛では文字を記しにくい材料に漢字で記されていたことからより時制や助字の省略などでより簡略化されていった。
文語は元々は口語を基礎に成り立ち、一度形成されてしまうと時間の経過とともに生きた口語から大きくかけ離れる傾向がある。とは言え、文語が口語と全く無関係であったわけでなく、『孟子』「公孫丑上」には
斉人有言曰、雖有智慧、不如乗勢。雖有鎡基、不如待時。
(斉人に言有りて曰く、智慧有ると雖も、勢に乗るに如かず。鎡基有ると雖も、時を待つに如かず。)
斉のことわざには「知恵があっても、時勢に乗ることが重要であり、良い農具があっても時宜を得ることが重要である」とある。
とあり、「磁基」とは斉の口語であることが分かる。この他、『史記』にも多くの口語の単語が見られ、後の『晋書』『南史』『北史』における書面語においても六朝の口語を取り入れることは避けて通ることはできなかった。文語は知識階級=上流階級のものであり、彼らが「卑語」として蔑んでいた庶民の言葉が全て反映されることもなく、過去の言語学者に見向きもされてこなかった。文語が長い年月を経て安定した文体を保ってきた反面、ゆれが大きいが故に唐・五代の変文、宋人の話本、金・元の戯曲といった庶民の言葉すなわち口語で書かれていた白話文は文語と比べて難解と感じさせることが多々ある。
また、約300年間統一国家が不在であったた西晋以後の南北朝時代を終結させて隋を建国した楊堅(541年~604年)に関する記述として『隋書』「巻六十六列伝第三十一」に次のようなものがある。
「朕雖不解書語、亦知卿此言不遜也」
(朕書語を解せずといえども、また卿の此の言を知るは不遜なり)
私は「書語」は知らないと言っても、お主の発言が不遜なことぐらいは理解しているぞ。
ここで述べられている「書語」とは、文書に記された言葉=漢語の文語であり、文語と口語の分離が当時はっきりと意識されていたことが示すものと考えられている。

荀子(紀元前298年?~紀元前238年?)の言行を記した『荀子』「正名篇第二十二」に
「後王之成名、刑名従商、爵名従周、文名従礼、散名之加于万物者、即従諸夏之成俗曲期、遠方異俗之郷、即因之而為通」
(後王の成名は、刑名は商に從い、爵名は周に從い、文名は禮に從う。散名の万物に加わる者は、則ち諸夏の成俗に從い、遠方異俗の鄉にも曲期し、則ち之に因りて而て通ぜしむ)
とある。
刑法は殷(商)王朝のものを、官爵の体系は周王朝のものを、国家の儀礼は周王朝の礼制を、その他万物の名称については中華世界で慣習的に用いられている名称を基準として、中華と習俗を異にする遠方の地でも中華世界の習慣に則って適切な中華の名称を与えるべき、といった意味であり、荀子が生きた戦国時代末期には雅言は時代が変わっても文体が変わらない古典語として残っていたということになる。荀子は人の作為した約束ごとを「偽」という語で表現し、そこには人為的に発生した共通語は「偽」の典型であったと述べている。加えて、荀子は言語を「約定俗成」と述べており、それは人間の約束ごとが定まり、習慣がまとまった結果として言語が誕生したものだと明言している。
中国における古典語は甲骨文字に代表されるように殷代にはすでに文語体が成立していたものの、元々は用いられる単語は春秋戦国時代の口語に基づいたものであり、時代が経過するにつれて実際の口語とは乖離が出てくるようになる。書面語としての雅言は漢字で写定とされるとその文体は古典という形で固定され、時代が変化しても基本的に大きく変わることはなかった。
文語の本質
『論語』「里仁篇第四」に
「子曰、朝聞道、夕死可矣」
(子曰く、朝(あした)に道聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり。)
とあり、これは一般的に「もし朝に正しい道を聞いたのであれば、その晩に死んでも構わない」というように解釈される。しかし、仮定の事態を示す「もし」「~なら」「~とも」といった概念に相当する語は原文のどこにも存在しない。仮にこれを現在の標準中国語に訳せば、「早晨得知真理、要我當晚死去、都可以」というようになり、文字数にして原文で7文字であったものが現代語では15文字で、口語では一字(一音節)の単語の判別がつきづらいことからなるべく二字(二音節)でひとまとまりの概念で表す傾向が強いことから、単音節の名詞が複音節に置き換えられているほか、仮定を示す「要」や主格の「我」が補われている。もちろん孔子がこの7文字ですべてを言い表した訳ではなく、実際にこのようなことを言ったのであれば話し言葉の語気を含む音節を連ねて発話していただろう。つまるところは、筆記者は孔子が言わんとすることの要点を捉えてそれを文章語に変換したのである。
このようにして、孔子の時代と現代とでは口語は異なっており、漢語としての基本的な性質は同じであるものの、口語と文語には一定の距離があった。古代中国人も筆写された言語と口語とでは一定の乖離があることをすでに意識していた。『易経』「繋辞伝」には孔子の言葉として、
子曰、書不盡言、言不盡意。然則聖人之意、其不可見乎。
(子曰く、書は言を盡くさず、言は意を盡くさず。然れば則ち聖人の意、其れ見るべかざるか。)
とある。書き言葉では言わんとするところを十分に述べ尽くせず、同様に口で話される言葉も心に思うことを十分に言い尽くせないとしており、「意」「書」「言」にはそれぞれ断絶があって、それゆえに古の聖人の言葉の真意は知ることができないことを明示している。これは一種の言語不信論であり、中国人の思考に深く根を張っている。「書」と「意」との断絶はどれぐらいであるかというと、唐代の孔頴達(547年~647年)は
書所以記言、言有煩碎。或楚夏不同、有言無字、雖欲書錄、不可盡竭於其言。故云書不盡言也。
(書は言を記す所以なるも、言に煩碎有り。或いは楚夏同じからず、言ありて字無く、書録せんと欲すると雖も、其の言を盡竭べからず。故に書は言を尽くさずと云う也。)
と述べており、「言」すなわち話し言葉には文章語を基準とすれば煩碎=くどくどしく冗長な部分が多く、なおかつ地域間の方言差があり、単語によっては音はあっても文字がないということも言及している。つまりは、古代中国人は言葉による意志伝達の機能には限界があることをすでに認識していたと述べているのである。

孔頴達が言及する「地域間の方言差」については、普通話=標準中国語が中国全土に普及する近代以前の中国社会では方言の差は極めて大きいことから、これを解消する手段として異なる方言を話すもの同士でもコミュニケーションを成立させるのに共通の文体を有する文語を用いていた。士大夫を中心とした知識階級の間で文語の効用は中世ヨーロッパのラテン語のような役割を果たした。これは中国だけでなく、日本や朝鮮でも同じような機能を持つようになり、例えば日本では室町時代には種子島にポルトガル商船が漂着した際には乗船していた中国人船員と種子島島民が筆談でコミュニケーションを図ったとされ、江戸時代には朝鮮通信使との応対に中国語の文語が用いられた。明治時代初期でも依然として中国人との意思疎通には文語での筆談が用いられてきたという事実があり、中国のみならず日本・朝鮮・ベトナムを含めた漢字文化圏に広く通用する意思疎通のツールとなっていった。また、古代に基本が確立した文語の文体はその後ほぼ一貫して伝わっていき、時代による多少の変化はあるにせよ、その変化の幅は日本語の文章語に比べると極めて小さい。それは文章語が話し言葉と常に距離を置いてきたからであり、一定の距離が結果的にゆれの大きい話し言葉の変化による影響を減らす役割を果たしてきたからである。

超言語とも呼べる漢字を用いた書面語は文言と呼ばれ、広い空間と時代を超えて意志の伝達を可能たらしめた。漢字によって写定されたこれらの超時間的・超空間的な「文言文」は独自の文体・語法の支配のもとに発達し続け、それは本来基盤としていたはずの口語との乖離が次第に大きくなっていった。また、一語増えれば原則として漢字が一文字増えることとなり、時代が経つにつれて文字数も増えてくる。結果的にそれら漢字を使いこなし、口語とはかけ離れた古典を理解できるのは士大夫層に限られることとなり、漢代から隋唐までの中古の共通語は古典的な文学語であり、具体的には上古の雅言を文字化した古典的文体をほとんどそのまま使いつつも人工的な技巧を加えたものであった。南朝梁で編纂された『文選』はその代表的な文学作品である。
中国における古典語の本質について、魯迅(1881年~1936年)は自著『門外文談』で以下のように述べている。
我的臆測、是以為中國的言文、一向就並不一致的、大原因便是字難寫、只好節省些。當時的口語的摘要、是古人的文。古代的口語的摘要,是後人的古文。所以我們的做古文、是在用了已經並不象形的象形字、未必一定諧聲的諧聲字、在紙上描出今人誰也不說、懂的也不多的、古人的口語的摘要來。你想、這難不難呢?
(私が思うに、中国の文語とは一貫性がなく、字を一字一字書き留めることに困難が伴うので、いくらか文を簡略化せざるを得ないのである。そうやって出来上がった当時の口語のメモが古人の文であり、古代の口語のメモが後世でいうところの古文なのだ。だから、我々が古文を作るというのは、もはや象形しないようになった象形文字や、音と字音が一致するとは限らないような諧声文字を用いて、紙の上に現代人が誰もしゃべらないし、判る人も少ないような古代人の口語を書き出すということなのだ。これは難しいであろうか、難しくないのであろうか、考えてみてほしい。)
上古中国語の文法
文法的特徴
上古中国語は一般に中国語の定義に使われる孤立語・単音節言語・SVO言語の性格が典型的に見られる時期である。
音節
上古中国語の基礎語彙はほとんどが単音節であったとされ、後期上古には複音節単語も相当数存在するようになる。また、「筆 prut」⇒「不律 pərut」のように単音節語が「一音節半語」的に発音されることもあったようである。
人称名詞
早期上古中国語の場合、一人称単数代名詞は主格「余」と所有格「朕」(早期上古の「我」は複数的である)、二人称単数は主格「女」と所有格「乃」というように「格文用」が存在したと見る考えもあったが例外も多く、屈折語の格変化のような厳格な使い分けではない。
形態変化
上古中国語において後代よりも生産的であったのは、「折 det(折れる)」と「折 tet(折る)」のような「清濁別義」、または「四声別義」による形態変化である。「清濁別義」とは声母の清濁によって意味が区別される形態論的派生を指し、 「四声別義」とは「好」=「hǎo(よい)」「hào(好む)」のように成長を変えることによって品詞の文法機能を変える形態論的派生法を指す。
語順
上古中国語ではSVOが基本ではあるが、早期上古中国語よりS+助詞+O+V、S+否定詞+代名詞+V(『論語』の「不吾知也」など)の語順が見え、中後期上古中国語の「弗」は「不之」の縮約形であるとされる。修飾語の位置は、A+N(修飾語+被修飾語)が原則ではあるが、早期上古中国語には「帝乙」「城濮」「桑柔」などN+Aの構造も見られる。
目的語の疑問詞は動詞に前置される現象もあり、「誰敬(誰を敬うか?)」「何見(何を見るか?)」というような用例も見られる。中期上古中国語で主格の場合では「孰+VP」、対格の場合では「誰+VP」を使う場合がある。後期では令誰代之(誰に代わられるか)のようにOが動詞に後置される例も出現する。特徴的な疑問の文型として、「何Ⅹ之有」「奈Ⅹ何」「何Ⅹ為」(Ⅹ=様々な語句)がある。
接受動詞を代表とする二重目的語文はS+V+Oi+Od(Oi:間接目的語、Od:直接目的語)が標準であり、S+以+Od+V+Oi、S+V+于+Oi、S+V+以+Odといった文型も見れる、甲骨文では祭祀関連の動詞に限り、「誰のため、どの神に、何の供物を」をいう三つの項目を取ることができ、これを三重目的語と呼ぶかどうかが議論されている。
判断を表す文は、判断詞を使わない「S+NP(也)」が一般的で、後期上古から「S是NP」の萌芽が見られるようになる。一般動詞の場合は「中性動詞(対格動詞=攻・追・迎など)」と「能格動詞=斬・誅・用など」の区別が明らかになっている。例えば、中性動詞では、SVやV者はそれぞれ「S(動作主)が~する」や「~する者」の意味であり、能格同士では「S(動作主)が~される」や「~される」の意味になる。
動詞
動詞が文法化して、多くの前置詞(介詞)・接続詞・副詞が出現した時期は早く、殷代からである。例えば、「于」は移動動詞から着点マーカーへと文法化し、さらに未来時を指向する「時間介詞」に拡張したと言われる。前置詞的用法が見られる動詞として、「在」「従」があり、動詞から前置詞、さらに接続詞を生んだものとして他に「眔」「及」「以」など、動詞から副詞になったものに「咸」「既」「具」「復」、形容詞から副詞になったものに「允」などがある。
使役に関しては「俾」「荓(『詩経』などに見られる)」「使」「令」のような使役動詞(役格動詞)を使った兼語文のほか、自動詞や形容詞が目的語を取るいわゆる使役動詞が注目される。受身は「Ⅴ于N(Nは動作主)」「為N所V」「為NV」「為N之V」「見V」などで表される。後期上古には被NVも現れる。
量詞
典型的な「数詞+類別詞(量詞)+名詞」、たとえば「四五千馬」のような例が現れるのは後期上古からである。早期上古の「牛三百五十五牛」のような表現は、類別詞の原初的な段階を伺わせるものとして非常に興味深いものであり、甲骨文の「一介臣」を典型的な「数詞+類別詞+名詞」と見ることは困難である。
先秦の文芸
詩経と楚辞
秦代以前の文字記録は非常に数が限られ、殷代および周初にいたっては殷代の甲骨に刻まれた卜辞(すなわち甲骨文字)および殷周時代に鼎や爵といった青銅器に鋳込まれたもしくは刻まれた金文が最も古い文字資料として発掘されており、これらから当時の言語状況が把握することができる。また、中国最古の古典文学と称される作品に『詩経』と『楚辞』がある。
詩経
『詩経』は西周初期(紀元前11世紀)から東周(紀元前7世紀)が成立年代とされ、周の平王による洛邑(洛陽)への東遷があった紀元前738年前後の詩編が多いとされる。古代ギリシアのホメロス(生没年不詳)による『イーリアス』や『オデュッセイア』といった叙事詩とほぼ同じ成立時期であり、両作品と並んで個人および集団の叙事詩集としては最古の作品と言える。儒教では『詩経』は『易経』『書経』『周礼』『春秋』と並んで「五経」のひとつとして重要な経典と扱われている。元々、日本の『万葉集』のように男・女・農民・貴族・兵士・猟師といった幅広い層の作者がおり、口承で伝わっていたようだが、春秋時代前期に成書化されて文字記録として保存されるようになり、詳細な成立過程については不明な点が多いものの、春秋時代後期には現行本の『詩経』に似た形が成立していたものと思われ、『荀子』にも「風」「雅」「頌」という語が見られることから戦国時代の時点で現行本にほとんど近い内容であったことが分かっている。『詩経』のうち「大雅」「頌」は宮廷で作られたものとされ、内容も用語も『書経』と共通点がある。また、それ以外の民歌に分類されるものでは統一性が強く、方言的要素は乏しい。このことから『詩経』は全体的に周の宮廷言語を根幹としていたものとされる。また、『詩経』では基本的に四字句を取って単調で素朴なリズムを奏でるというスタイルであるものの、押韻の位置が一定していないためにどの字が押韻なのか特定しづらいという特徴がある。
楚辞

『詩経』とともに最古の中国古典文学と扱われる『楚辞』は、『詩経』が古代華北を代表されるのとは対照的に、華中以南に栄えた楚で誕生した南方の風土を題材としたロマン文学主義的要素の強い抒情詩である。書物としての『楚辞』は前漢末期に劉向により書物としてまとめられていたものの後に散逸し、後漢の王逸(生没年不詳)によって劉向の書に独自の詩一編を加えた『楚辞章句』が現存する最古の『楚辞』となっている。詩経が成立したとされる時期から200年後にまとめられた『楚辞』は、「辞」と呼ばれる叙情的な韻文の文体で自然風景・人情・風俗の描写が南方的であることが特徴的である。『楚辞』の代表的な作品として楚末期の政治家であった屈原(紀元前343年~紀元前278年)の「離騒」が有名である。『詩経』の四字句の形式とは異なり、一句が8~9字で構成されているだけでなく、長編かつ内容が若干複雑なものとなっている。『楚辞』は巫祝の音楽に起源を持つとされるが、「兮」の字を多用する独特の形式と激越な感情を豊かな文辞で読み上げる抒情性は「賦」と定義され、特に「離騒」とはじめとする屈原の作品はその弟子とされる宋玉(生没年不詳)の作品は「騒体賦(騒賦)」と呼ばれて後世における賦の源流ともなった。漢代以降、「離騒」的な抒情性を含んだものを「辞」とし、「辞」と「賦」を合わせて「辞賦」と一般的に呼ぶ(ただし、「辞」と「賦」の違いは明確に定義されているわけではなく、「賦」は「辞」を包括する場合もあれば、両者をニアリーイコールの関係とする場合もある)
甲骨文字
殷代の甲骨文
甲骨文とは現存する最古の中国の文字資料のひとつであり、殷代に占卜を行うために亀の甲羅や牛の肩甲骨といった甲骨に刻んだ文字である。元々は甲骨に熱した金属を押し当てて、そのひびの入り方で吉凶を占っていたとされるが、紀元前13世紀半ば頃の第22代殷王の武丁の時代から甲骨に文字を刻むようになり、漢字の原型となっていることが分かる他、甲骨文の文法構造は後の中国語と大きな違いがないことが判明している。
基本的に河南省安陽市にある殷代の遺構である殷墟のみで甲骨は発見されており、その発掘数は現在までに10万~20万点あると言われている。甲骨文字は殷代で用いられ、殷周革命以後はほとんど使われなくなり、清末に発掘されるまで殷代に作成されたものが発掘されることがないままそのまま地中に残っていたということである。
周代の甲骨文
甲骨は殷代のものだけと誤解しがちであるが、周代初期でも用いていたことが1951年に陝西省邠県(現在の咸陽市彬州市)で発掘された甲骨から判明した。これは動物の肩甲骨を非常に薄く加工したものであり、その背面には占いのために加熱した13か所のくぼみが残っていた。翌1952年には河南省洛陽市の東部郊外にある泰山廟という西周時代の遺跡からも占いを行った形跡のある亀甲が発見された。いずれも、文字は刻まれてはいなかったが、この発見により周でも殷と同様に甲骨を使って占卜を行っていたことが分かった。
1954年に山西省洪趙県(現在の洪洞県)の坊維村にある西周の遺跡から青銅器とともに「北宮貞三止又疾貞」と刻まれた甲骨が発見され、さらに1956年には陝西省長安県の張家坡にある西周時代の遺跡からも文字を刻んだ甲骨がされた。この他、1975年には北京市昌平県の白浮でも発見され、1977年には岐山県鳳雛で一万片以上が発掘され、そのうち300点近くの甲骨に文字が刻まれていた。特に張家坡が発見された場所は周の文王が都を置いたとされる豊鎬遺跡の一部であることから周代のものは確実であった。ここで発見された甲骨には「六八一一五一」や「五一一六八一」といった単なる数字の羅列のようなものがあり、当初は何の目的で刻まれたのかは長らく未解読であったが、1979年に周原遺跡で見つかった甲骨から易の一部であることが判明し、周代でも甲骨による占卜が行われていたことが判明した。
中でも陝西省の岐山県と扶風県にまたがる周山遺跡で1977年に発見された周原遺跡から出土したものは、記録された内容と発見された量はそれまで発見された西周甲骨とは比較にならないほど膨大な量であり、周代の歴史を解明するのに大きく貢献している。この他、同地では毛公鼎や大盂鼎といった有名な考古学史料が発見されている。周山遺跡がある場所は周発祥の地であるとされ、伝説によると元々周族は「豳」と呼ばれた陝西省彬県一帯に居住していたが、西北の遊牧民に逐われて周の武王の曽祖父にあたる古公亶父の時代に岐山に移り住んだとされている。周族が「周」と自称したのはこの頃からである。周の建国神話を示すものとして、『詩経』「大雅」「緜」には
古公亶父、来朝走馬、率西水滸、至于岐下、(中略)周原膴膴、菫荼如飴、爰始爰謀、爰契我亀、日止日時、築室于兹。
古公亶父、来朝に馬を走らせ、西水の滸(ほとり)に率(したが)いて、岐の下に至る。(中略)周原は膴膴たり、菫荼も飴の如し、爰に始めて爰に謀り、爰に我が亀に契(きざ)み、日に止(お)り、日に時(お)り、室を兹(ここ)に築けり。
古公亶父はある朝早くに馬を走らせ、川に沿って西に向かい、岐山の麓までやってきた。この周原という土地はまことに肥沃であり、泥や土は飴のようにねっとりしていた。古公亶父はこの土地を一族の根拠地にしようと皆と相談し、亀で占いをしたところ、ここに都を造るべしという託宣が下ったのでここに宮殿を造営した。
という一文があり、ここでも亀甲による占卜をしているとの記述が見られる。西周甲骨は特定の時期のものではなく、初歩的な研究によればもっとも古いもので文王の時代に属し、新しいものであれば第四代の昭王や第五代の穆王の時代まで遡れるともしている。
金文
金文とは広義では青銅器に鋳込まれた、もしくは刻まれた文字を指すが、一般的には殷・周の時代に作製された青銅器の文字を指すことが一般的である。石碑などに刻まれた碑文と合わせて青銅器の文字を研究する学問を金石学と呼び、宋代の欧陽脩(1007年~1072年)がその先駆者とされている。
銅は最も早く人類によって発見され、使用されてきた金属のひとつである。人類は当初は自然界に少量でしか存在しない天然銅を使用していたが、後に鉱石から銅を精錬する技術を発明された。当初は他の金属を混ぜることのない純銅であり、「紅銅」と呼ばれているものである。長年の試行錯誤を経て、銅に一定の比率のスズ(錫)を加えることで硬度が増し、かつ融点が下がることが発見された。このスズを含んだ合金が青銅であり、世界各地で誕生した文明で広く利用されてきた。
古代中国においては青銅器の鋳造が大いに発達したことにより、青銅器の種類は多種多様である。古代中国の青銅器は大きく分けて、烹炊器・設食器・酒器・水器・楽器・兵器・車馬器・工具・度量衡・雑器といった10種類に分類することができる。中でも烹炊器に代表されるような調理器具は元々は土器だったものが、技術の発達とともに青銅器でも作られるようになり、やがてそれが天下に覇を唱える王者の権力の象徴として認識されるようになっていった。
青銅器の鋳造自体は殷成立以前の二里頭文化(紀元前2100年~紀元前1800年もしくは1500年)の時代に始まったものとされているが、その時代の青銅器には金文は確認されていない。殷の第19代の王・盤庚(?~紀元前1277年?)が亳(河南省安陽市)に遷都したとされる時期の作製された青銅器から金文が発見されている。
青銅器は殷代から西周を経て、春秋時代に至るまで青銅器文化が最も光彩を放った時期であり、『春秋左氏伝』において「國之大事在祀與戎(国の大事は祀〔まつり〕と戎〔えびす〕にあり)」という一文があるように、祭祀用の礼器と国家を防衛する武器はまさに青銅器で作られていた。当時としては最先端の技術を用いて趣向を凝らした文様で飾られ、寿ぎの言葉すなわち金文が記された青銅器は王や貴族にとって権威の象徴となっていった。技術的には西周後期から春秋後期にかけて低下するが、春秋中期となると新たな技法を採用することにより過度とも呼べる装飾を施した青銅器が作られるようになる。
青銅器は殷~春秋時代にかけて広く使用された金属器ではあったが、精錬技術が難しく、なおかつ材料も限られるというデメリットがあった。しかし、戦国時代になると、地中に多く存在し、比較的安価で大量生産が可能な鉄器の使用が広まり、青銅器の時代は終焉に向かう。なおかつ、これまでの都市国家は新興国家により滅ぼされ、中央から派遣された官僚である県令によって統治を行う郡県制に移行する中で、青銅の礼器の重要性は著しく低下した。次第に作りも粗末になっていき、子孫の繁栄を祈る文言を記すといったことはなくなっていった。漢代以降も青銅器の製造自体は続いていくが、その意義や性質は従来のものから根本的に変化した。
諸子百家
諸子百家の誕生と発展
春秋戦国時代に活躍した思想家たちを総称して諸子百家と呼ぶ。前漢の劉向(紀元前79年~紀元前8年)・劉歆(?~23年)父子によって与えられた名称であるが、その名の通り西周滅亡から秦によって中国が統一国家が完成するまでの約550年間に活躍した儒家・法家・墨家・道家・兵家・名家・陰陽家・縦横家・農家・雑家を指す(ここに兵家や小説家を加えることもある)。西洋哲学のような人間の存在や生き方について探求する学問とは異なり、諸子百家で網羅する学問は多岐に渡り、儒教のような礼制を説くものをあれば、法家のように法治主義に統治することを説くもの、墨家のように平和主義と博愛主義を説きつつ守城戦の専門としたもの、道家にように後世の中国思想の源流となった老荘思想を生み出したもの、兵家のように軍略と戦略を説いたもの、など非常に多様性に富んでいた。ただし、当時は自身の学派を「~家」と称していた事実はなく、これは漢代に入り当時の学者により便宜的に与えられた呼称である。
春秋戦国時代は周の権威が失墜し、これにより中国各地で王が割拠した時代である。当時様々な思想家たちが生まれ、かつ多数の門人を受け入れることで自身の学派を形成していった。春秋時代に誕生したのは儒家・道家・墨家・兵家であったとされる。数ある学派の中でも儒家と墨家は二大学派として当時認知されていたようである。
その後、戦国時代に突入すると、各国の諸侯は富国強兵を進める必要性に迫られ、その中で低い身分の士大夫や庶民にも立身出世や下剋上の風潮もあり諸侯に献策する遊説家が政策立案者として誕生して迎合されていった。斉では魏での積極的な人材登用政策に触発され、威王(?~紀元前320年)と宣王(?~紀元前302年)により国都の臨淄(現在の山東省淄博市)に各地から学者を招き、それらの学者は「稷下の学士」と呼ばれた。また、威王の孫にあたる孟嘗君(?~紀元前279年)は戦国四君に数えられ、威王や宣王同様に多くの食客を召し抱えたことで、一芸あればどんな者でも積極的に迎え入れてその数は数千名にのぼったとされる。孟子(紀元前372年?~紀元前290年)も滕の君主である文公の食格であったとされる。
孟嘗君や同じく多数の食客を抱えていた信陵君(?~紀元前244年)に対抗して、食客三千人を召し抱えていたことで知られるのが秦の呂不韋(?~紀元前235年)である。呂不韋の食客には後に秦の宰相になった李斯(?~紀元前208年)もおり、食客の知識や情報を集めて『呂氏春秋』を編纂させた。当時の諸子百家の書物と大きく異なるのは、思想的には中立的な立場から儒家・道家を中心としながらも法家・墨家・農家・名家・陰陽家など諸家の説を幅広く採用した百科事典的な性格を有した書物であり、完成後に市井で披露して一字でも添削できれば多額の報奨金を出すと触れ回った故事「一字千金」は有名である。呂不韋が様々な思想を許容する『呂氏春秋』を編纂した目的は来たるべき秦王嬴政すなわち後の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)による天下統一を見据え、その帝王たる正統性を主張するために天人相関説と封建制をもって説こうとしていたと言う。後に始皇帝が韓非子の説いた法治主義に傾いたのと異なり、『呂氏春秋』は道家的な思想が色濃かったとも言われている。
諸子百家の種類
春秋戦国時代には以下の思想家が活躍した。
儒家
- 孔子 『論語』
- 孟子 『孟子』
- 荀子 『荀子』
道家
- 老子 『老子』
- 荘子 『荘子』
- 列禦寇 『列子』
- 管仲 『管子』(後世に管仲に仮託されたものとの説もある)
墨家
- 墨子 『墨子』
兵家
- 孫武(孫臏?) 『孫子』
- 呉起 『呉子』
法家
- 商鞅
- 申不害 『申子』(現存せず)
- 慎到 『慎子』(全42篇のうち5篇のみ現存)
- 韓非 『韓非子』
陰陽家
- 鄒衍
名家
- 鄧析 『鄧析子』
- 尹文 『尹文子』
- 公孫龍 『公孫龍子』
上記諸子百家が記したとされる、もしくはその言行を門人が記したとされる書物は伝世に古代中国思想書として現在もなお広く読まれている。かつ、諸子百家の書物は日本でのいわゆる漢文に定義づけられる文言であり、当時の語彙だけでなく方言や文法構造を現代人の我々に示してくれる貴重な資料となっている。
諸子百家の終焉
始皇帝が紀元前221年に秦以外の戦国七雄と呼ばれた国々を滅ぼして中国を統一すると、韓非子に触発されてそれまでの貴族制から中央集権制に政治体制を切り替え、全国統治も封建制から郡県制を採用しつつ、様々な革新的な政策を実行していった。その中に挟書律と焚書坑儒がある。
いずれも思想統制政策であり、挟書律とは宰相李斯の提言により紀元前213年に施行されたもので、秦以外の諸国の歴史書、『詩経』『書経』、諸子百家の書物を民間人が所有することを禁止した法律であり、医薬・卜筮(ぼくぜい)・農業に関する書物のみ許されたとされる。郡県制に反対し、古来の封建制を主張して体制批判を行う儒者を弾圧するために李斯が建議したものであり、これにより民間で保有されていた諸国の歴史書や『詩経』『書経』をすべて群守もしくは郡尉に提出した上で焼き払うことを命じ、諸子百家の書物も各地の官吏に焼却処分するように命令が出された。これがいわゆる焚書である。挟書律は秦が滅びて、漢になった後も継続され、紀元前191年に恵帝(紀元前213年?~紀元前188年)の治世に廃止されるまで残っていた。
また、焚書と同時に行われたのが悪名高い坑儒で、紀元前212年に咸陽の学者460人を生き埋めにして処刑した事件である。元々は晩年に不老不死を望む始皇帝が方士の盧生や侯生に巨額の資金を出して仙薬を作らせていたが、始皇帝の残虐性に恐れをなして盧生が逃亡したことに怒り、盧生のような惑わせる学者を検挙するように命じた。儒者がすべて処刑されたように語られることが多いが、実際には処刑を逃れた後に易者として秦の宮廷に仕えていた儒者がいたともされる。
秦の崩壊後、漢が建国すると、漢初は道家・法家・雑家を基礎とした黄老思想が流行するも、武帝(紀元前156年~紀元前87年)の時代にとなると儒者董仲舒(紀元前176年?~紀元前104年?)の建議により儒教が国教化し、戦国時代のような遊説家が活躍する場が失われていった。また、秦代以降、歴代王朝は天子として皇帝を中心とした中央集権化し、かつ思想も一元化していったこと、とりわけ往時のように各国で諸子百家を求める必要性がなくなったことも各種哲学・思想が発達しにくい一因であった。
漢代以降の受容
秦漢で諸子百家の活動の場が失われ、漢代および魏晋からは儒教が以後皇帝を中心とした専制政治の中で儒教が中心的な思想・学問となっていった他、後に中華民族のメンタリティの根本思想ともなっていった道教が老子や荘子などの老荘思想を代表とする道家を起点して誕生している。漢代以降、184年に発生した黄巾の乱、同じく後漢に誕生した五斗米道はそれぞれ道教の原型とも呼ばれる宗教理念を掲げた組織であったとされ、南北朝の北魏に仕えた寇謙之(365年~448年)により天師道として道教を体系化・組織化したことで一気に隆興していった。唐代になると仏教よりも厚遇されて国教の扱いとなり、中国史上で道教が最も発達し栄えた時代となった(唐の皇室が老子を祖先と定義していた他、唐が中国大陸を統治するプロパガンダに老子が言ったとされる予言が利用されていた)。
墨家は『韓非子』や『荘子』が伝えるところによると秦の中国統一前後には拠点を秦に移したものの、すでに複数の派閥もしくは学派に分裂したとされ、漢初には消滅したとされる。明代まで墨家集団およびその思想について言及されることはほとんどなくなり、王充(27年~97年)の『論衡』、『孔叢子』、魯勝(4世紀初頭)の『墨弁注』、韓愈(768年~824年)の『読墨子』、黄震(1213年~1281年)の『黄氏日鈔』などでわずかに言及されるのみであった。明代に至ると出版文化の発達に伴って複数の刊本が刊行され、清代には畢沅(1730年~1797年)の『経訓堂本墨子』や孫詒譲(1848年~1908年)の『墨子間詁』を始めとして研究・校訂整理・再評価が行われるようになる。清末民初には、変法運動の中で梁啓超(1873年~1929年)や譚嗣同(1865年~1898年)らの変法派の革命家により注目され、民初にはキリスト教との比較研究や墨子の論理学や科学的内容の評価が盛んに行われた。
『孫子』は中国のみならず、日本にも奈良時代に吉備真備(695年~775年)により唐より伝来したことで、源義家(1039年~1106年)・楠木正成(1294年~1336年)・武田信玄(1521年~1573年)に愛読されたとされ、信玄は『孫子』の一文である「風林火山」を旗印としていたことは有名である(ただし、鎌倉時代から戦国時代までは兵法書として『孫子』よりも『六韜』や『三略』のほうが重宝されていたようである)。江戸時代になると、約250年間平和であったにも関わらず戦国時代に蓄積された軍事知識が整備された兵学(軍学)が盛んとなっていったことで、その研究対象として『孫子』を取り扱うことが増え、林羅山(1583年~1657年)・山鹿素行(1622年~1685年)・新井白石(1657年~1725年)・荻生徂徠(1666年~1726年)・佐藤一斎(1772年~1859年)・吉田松陰(1839年~1859年)らが注釈書を著述している。ヨーロッパにも後に紹介され、1772年にフランス人イエズス会士のジョゼフ=マリー・アミオ(1718年~1793年)によりフランス語版の『孫子』が出版された。なお、ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)が『孫子』を愛読していたとの伝説が流布しているが、裏付けとなる事実は今のところ確認されていない。
