秦漢の歴史

秦の統一以前

東周末期すなわち戦国時代には周の権威と影響力が一気に低下していったことで、強大化した諸侯が覇権争いを繰り返していった結果、周本来の王制を無視して各自で王号を自称するまでになっていった。戦国時代の始まりをいつとするのかについては現在いくつかあるものの(紀元前481年、紀元前476年、紀元前475年、紀元前468年、紀元前453年、紀元前441年などがあるが、紀元前403年の晋が趙・魏・韓に三分裂した年を起源とするのが一般的)、戦国初期には諸侯国が数十国あったとされ、複数あった小国は次第に強大な国力を蓄積していった大国に収斂されていった。戦国初期に国力のあったのは斉・晋・楚・越であったとされ、この中で斉は周王室の譜代とも言える姜呂尚(紀元前1021年頃?~紀元前1000年頃?)の子孫により長年統治されてきたが、紀元前386年に田和(?~紀元前385年)により政権を簒奪される。晋についても、武王の子である唐叔虞の子孫が代々統治してきた親藩国であったが、有力大夫により実権が握られるようになり、最終的に有力大夫三家によって建てられた趙・魏・韓が紀元前403年に周の威烈王に正式に諸侯として叙せられ、紀元前376年には主家である晋が魏と韓の連合軍により滅ぼされてしまう。

戦国時代中期になると、斉・趙・魏・韓・楚に加えて、現在の河北省北部および東部を支配していた燕、および秦が戦国七雄として台頭していく(七雄以外に宋・衛・中山国といった諸侯国も存在した)。秦は伝説上の帝王である舜と禹に仕えた伯益の子孫とされる非子(紀元前933年?~紀元前858年?)なる人物が良馬を飼育したことで周の孝王(紀元前866年)により秦邑(甘粛省天水市)を与えられたのが起源である。紀元前770年には非子の子孫である襄公(?~紀元前776年)が周の平王(?~紀元前720年)より岐山以西の地を与えられ、なおかつ伯爵の号を下賜され、これにより秦が諸侯国に列せられるようになる。紀元前628年には第9代の穆公(?~紀元前621年)が晋を破ったことにより、春秋五覇のひとつに数えられるようになる。

魏の興亡

戦国時代初期には魏が中原の中央にあり開発しやすかったという地の利を活かして、文侯(?~紀元前396年)には呉起(紀元前440年頃?~紀元前381年)ら有能な人材を重用することで領土を拡大し、子の武侯(紀元前424年~紀元前370年)も優れた君主であったために魏の勢力を伸張させることができた。しかし、さらにその子である恵王(紀元前400年~紀元前319年)の時代には魏国内の領土がすでに開発され尽くしていた他、秦や斉といった土地開発の余力がある隣国に囲まれていたために国力が低下していき、紀元前354年の桂陵の戦いおよび紀元前341年の馬陵の戦いで斉に大敗したことで中原の覇者としての地位を喪失することとなった。

斉の台頭

魏の影響力低下に代わって中原に覇を唱えたのは斉と秦であった。斉は元々周建国に功績のあった姜呂尚を始祖とする諸侯国であったが、紀元前391年に第32代君主であった康公(?~紀元前379年)が家臣の田和(?~紀元前385年)により追放され王位を簒奪されている。以後の斉を田斉と呼ぶが(それ以前は姜斉と呼ぶ)、田氏統治による斉は「稷下の学士」で代表される積極的な人材登用を行ったことで国力を増強して軍事力も強大化していく。魏ほど土地が肥沃でないことから農業に不向きではあったものの、漁業・製塩といった特産品の産業の他、絹織物・製鉄・製陶などの工業による都市づくりを行っていった結果、国都の臨淄は春秋戦国時代としては最大規模を誇り、最盛期で人口35万人に達したと言われている。田斉第6代の湣王(?~紀元前284年)の時代には紀元前298年には韓・魏と連合して秦の函谷関を攻めて和議を結ぶことに成功した他、紀元前286年には宋の内乱に乗じて宋を滅ぼした。また、南方の楚や西方の韓・魏・趙に侵攻して領土拡張を図るなど斉は最盛期を迎えている。しかし、これが却って他の六国を警戒させることになり、紀元前284年には済西の戦いにて燕の将軍楽毅(生没年不詳)率いる燕・秦・趙・韓・魏の連合軍により大敗し、莒(山東省日照県)と即墨(山東省青島市)の二城を残して滅亡寸前にまで陥るものの、紀元前284年~279年までの合従攻斉の戦いでの燕の内紛を利用した反間の計により攻勢に転じて奪われた70余城を取り返した。斉は領土を奪還できたものの、紀元前265年に湣王の子である第7代の襄王(?~紀元前265年)が死去すると田斉の国力は一気に衰えていき、その一方で西方の新興勢力である秦が領土を拡大していく。秦が六国を次々と滅亡させていく中で斉が最後の一国となるものの、紀元前221年に滅ぼされる。

秦による征服と統一

一方で、西方の一勢力にすぎなかった秦は紀元前383年に洛陰の戦いにて魏に敗れて領土を失うことになり、第24代公の献公(?~紀元前362年)の時代には櫟陽(陝西省西安市)に遷都する。子の考公(?~紀元前338年)は秦が置かれている現状に憤慨し、故地を奪還すべく富国強兵を進めることを目論み、その一環として広い人材登用を行う。その中で有名なのが元々魏に仕えていた商鞅(紀元前390年~紀元前338年)による変法であり、法治主義に基づいた行政制度の改革や什伍制の導入により中央集権化を進め、生産力と軍事力を向上させていき、他の六国を圧倒するまでに成長していく。紀元前350年には都を咸陽(陝西省咸陽市)に遷移させる。孝公の子、恵文王(紀元前356年~紀元前311年)の治世には秦の君主として初めて王を称するようになり、紀元前318年に函谷関の戦いで魏・韓・趙・燕・楚の連合軍と戦うことになるもののこれを迎撃し、紀元前316年には現在の四川省にあった蜀と巴を滅ぼしたことで同地の開発を進めて秦の生産力を向上させる。また、縦横家として知られた張儀(?~紀元前309年)を宰相として登用することで紀元前312年の丹陽・藍田の戦いで南方の大勢力であった楚を撃破して優位に立場に立ち、楚の懐王(?~紀元前296年)を捉えるまでに至った。これにより魏・韓も一時的には秦に屈服したが、恵文王と子の武王(紀元前329年~紀元前307年)との間で起きた確執がきっかけで国力は一時的に後退する。

紀元前298年には斉の宰相であった孟嘗君(?~紀元前279年)が韓・魏との連合軍を組んで侵攻を開始し、ここに趙・宋も加わったことから、秦は使者を送って講和を求める。この後に斉は東方で領土を拡張して紀元前286年に宋を併合するようにもなり、周辺諸国を圧迫するようになっていった。結果的に中国では秦と斉の二強時代を生み出すこととなり、両国は同盟を結んで斉の湣王(?~紀元前284年)が東帝、秦の昭襄王(紀元前325年~紀元前251年)をそれぞれ一時的に称する。斉は周辺国に強く警戒されただけではなく、孟嘗君が魏に亡命するという事件が起きた他、紀元前284年に燕の楽毅(生没年不詳)率いる韓・魏・趙・楚で構成された連合軍により攻められたことにより一気に国力を失う。これにより、斉・秦の二強から秦の一強時代に移っていく。以後、昭襄王の時代には将軍の白起(?~紀元前257年)と宰相の魏冄(生没年不詳)らの活躍や、後に魏より亡命してきた范雎(?~紀元前257年?)を登用したことにより外交方針を改めつつ、紀元前260年に長平の戦いで趙を撃破する。

長平の戦いと前後して趙に人質として送られていた子楚(紀元前281年~紀元前247年)に呂不韋(?~紀元前235年)が目を着けて投資したことにより、子楚は秦の第5代君である荘襄王として即位する。この荘襄王呂不韋の愛妾との間に生まれたのが嬴政である。紀元前256年に東周と西周の領地を支配下に組み込んだことで周が滅んでその旧領を接収するも、紀元前247年に河外の戦いで魏・趙・韓・燕・楚の連合軍に函谷関まで敗走させられるが、連合軍を率いていた信陵君(?~紀元前244年)を流言飛語で失脚させると辛うじて滅亡の危機を回避することができた。

秦の始皇帝の文字統一事業

紀元前221年に中国全土を平定して中国を統一した秦の始皇帝(紀元前259年~210年)は政治の中央集権化を進める中で郡県制を敷くとともに、各地でばらばらの基準で定められた度量衡・馬車の幅軸(車軌)・位取記数法を統一し、交通網や通貨の整備等を進めた。中でも文字統一が重要な事業の一つとされている。漢代の許慎が編纂した『説文解字』によれば、秦では八体と呼ばれる字体が8種類(大篆・小篆・刻符・虫書・摹印・署書・殳書・隷書)存在していたとされ、この内小篆を基準とした書体への統一化を宰相の李斯(?~紀元前208年)が秦国内で進め、後に皇帝が使用する文字を「篆書」とし、標準書体と定めた。これに対して臣下が用いる文字を隷書として秦が征服した地域でも公用文字として使用することを定め、各地での固有書体の使用を廃止している。戦国時代は漢字の使用場面や用途が拡大し、様々な事柄が文字に記録されていった。同時に漢字の地方化も進んでいき、地方ごとで独自の発展を遂げていった。結果として、漢字の字形が地方によって異なっていただけではなく、漢字の用字法もそれぞれで異なっていたことが近年の研究で明らかになっている。

秦に征服される以前の楚では楚文字(楚国文字)と呼ばれる独自に発達した文字を使用されていたとされ、秦の中国統一による文字統一政策で次第に使われなくなり消滅したものと推測されている。また、1950年以降に中国各地で五里牌竹簡(湖南省長沙市・長沙楚墓)・望山竹簡(湖北省江陵県・江陵望山楚墓)・信陽竹簡(中国河南省信陽市・河南信陽長台関楚墓)・馬王堆帛書(湖南省長沙市・馬王堆漢墓)といった竹簡・木簡・帛書と呼ばれる文字資料が発掘され、戦国期から秦に移る過程でも中国各地で独自の文字を使用していたことが窺い知れる。

後世に始皇帝の悪法として伝えられる焚書坑儒は専制政治のために行った思想統制であることは間違いないが、近年発掘された秦漢時代の墳墓から儒家関連の文章が大量の木簡・竹簡・帛書で発見されていることから焚書坑儒はそこまで徹底していたものでもなく、儒家による誇張も若干含んでいたのではと近年の研究では指摘されており、思想統制の一方で旧書体を廃止して篆書体への統一を図るという側面も持っていた。これが一般的に言われる始皇帝の「書同文」の政策であり、中国各地での行政文書処理の効率化や通信網整備に着目したという意味では文字に特化した政策ではあったものの、国家主導の言語政策としては中国史上初といえる。

皇帝による中央集権国家となった秦は郡と県によって中国各地を統治する郡県制を導入し、各地の郡・県に派遣した役人を通じて統治を行っていった。郡と県の長官・副官は皆中央からやってきた官吏であり、官人用語に相当する何らかの共通語で互いに意思疎通を図っていたものと思われる。しかし、現地には土着の方言があり、それを中央からの管理は理解することができないために、最低でも文字が書ける程度の土着の顔役が「吏」として登用されて徴税・賦役・戸口調査などの実務を官民の間に立って行っていた。漢の高祖・劉邦(紀元前247年~紀元前195年)は故郷の沛県(浙江省徐州市)の東にある泗水で亭長(警察分署長)についていた他、劉邦に仕えた蕭何(紀元前257年~紀元前193年)は沛県の役人で、同じく蕭何の部下にあたる曹参(?~紀元前190年)は刑務所の属吏、夏侯嬰(?~紀元前172年)は県の厩舎係兼御者であったとされる。彼らは「刀筆の吏」すなわち文書仕事に従事していた小官吏であり、官民の通訳の役割も果たしていた。